2020-06-23 Tue 00:00
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最近、幸田露伴の『平将門』を読みましたが、文章が堅くてあまり面白くなく何度も挫折しそうで頭に入りませんでした。
>『風と雲と虹と』 原作・海音寺潮五郎、主演・加藤剛、こちらは面白そうです。
2020-06-23 Tue 20:18 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
平将門は、茨城県、特に旧下総地域ではいまだに人気があるみたいですが、「将門の乱」「新皇宣言」「怨霊伝説」など断片的には耳にしてはいても、歴史的にどのようなことをやった人なのかはちっとも知りません。伝承や伝説ではなく、最近の歴史学の成果から将門とその時代の常総の景観を知りたいと思っています。そんな本を脇に、1976年放送のNHK大河『風と雲と虹と』を見ると、解釈の違いを感じることができて面白いです。
2020-06-24 Wed 13:42 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>「新皇宣言」「怨霊伝説」
幸田露伴を読むにそこまで特殊な人ではなかったような、です。この作者も真の将門を伝えたかったみたいなのでもう一度読んでみます。 応仁の乱以前は、討死や刑死の人は、だいたい怨霊になったのではないでしょうか。
2020-06-24 Wed 20:54 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>応仁の乱以前は、討死や刑死の人は、だいたい怨霊になったのではないでしょうか。
でも、世の中怨霊に満ち溢れて、怨霊を跨いで歩くというほどではないので、だいたいが怨霊になったともいえないのではないでしょうか。怨霊は、殺された本人が怨霊になろうと思って怨霊になるのではないと思います。怨霊を生むのは殺した側だと思います。殺した側に、恨まれても仕方がないという己の非の意識が必要なのだと思います。
2020-06-24 Wed 21:19 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
『風と雲と虹と』懐かしい!今でもテーマ曲フルコーラスで口遊めます。緒形拳さん(純友役でしたっけ?)が好きでした。以前、個人的に剛さんのおじさんと星仲間でした。
私は40歳頃まで霊感が強かったようで、お墓や事故現場などへ近づくと全身鳥肌が立ちます。昔父親に連れられて「将門の首塚」に行った(小学校の通学路近くでした)ときは何も感じませんでした。ほんとうは首塚ではなかったのか、怨念など無かったのか、それとも時を経て怨霊はもう消えたのか…未だに謎です。 >怨霊を生むのは殺した側
確かに、殺した側が怨霊を鎮めたいと思った瞬間が、怨霊が生じる時だという考え方もできますね。 >霊感が強かった~「将門の首塚」~ほんとうは首塚ではなかったのか かつての宜保愛子さんの出演番組みたいです。
2020-06-25 Thu 07:32 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
みゃおさん
『風と雲と虹と』の放映年には、自分は大学へ入って下宿し始めた年で、TVは持たなかったのでリアルタイムには見ませんでした。加藤剛のおじさんと星仲間って、この近辺にお住まいだったのですか?加藤剛は静岡出身って書かれていますが。霊感が強かったのに「将門の首塚」に反応しなかったというのは面白い情報ですが、首塚は神田ですよね。胴塚は岩井にあるようですが。
2020-06-25 Thu 18:18 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
おじさんは東京下町にお住まいでした。私も当時そこへ務めてたのですが、偶然知り合って意気投合し、普段から撮っていた天体写真を見せていただきました。剛さんも確か高校か大学からは都内じゃなかったですか?
首塚はあちこちにあるって父親から聞いて、「えっ、首ってひとつだけなのでは?」と思ったけれど、歴史に詳しかった父の言うことなのでそのまま信じてました。仏舎利が世界各地にあるようなものなのか、それとも地元で単に「尊敬すべき人だから祀った」という形而上学的なものなのか、今となってはよく分かりません。小学生の自分には「ここには何も無い」という感触しか残りませんでした。 怨念という言葉でふと蘇った思い出ですから、眉唾みたいに聞こえるので信じなくていいですよ。ただ、自分にとっては子供ながらに鮮明な記憶として残っています。 加藤剛は好きな俳優ですが、私もその大河ドラマは大学進学の時期で見られませんでした。
幸田露伴の「平将門」の再読を始めました。途中でくじけないように将門煎餅を買ってきました。厚焼きと薄焼きがあることを知りました。 小貝川を境にして常陸と下総の国に分かれていて、下総が将門方、常陸が敵方(将門の従兄弟の系統)と知りました。地元の地図を思い浮かべると興味を持って読めそうです。 疑問に思ったのですが、旧真壁郡は常陸国で、下妻の南部は下総国ですよね。でも、現在、筑西と下妻の境には小貝川は流れておらず、下館から下妻へと流れています。このへん(現下妻市内)の旧国境はなんで決まっていたのでしょうか。小貝川の位置が変わったのでしょうか。
2020-06-26 Fri 07:19 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
墓の中には、遺骸そのもの以外にも、分骨された骨、遺髪、遺品などが入っていると思えば、誰それの墓がいくつあっても構わないのですが、首塚がいくつもあると気になりますね。ただ、将門の場合、道真の飛梅と繋がるのかもしれませんが、京都から首が飛んで戻って数カ所に着地したらしいのでそれぞれ首塚を名乗っているのかもしれませんね。
2020-06-26 Fri 07:32 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
将門煎餅を食べながら読めばモチベーションアップになると思います。ちなみに、種類は、もう一つ本厚焼きがあります。
https://bit.ly/2YAaj3n 制作年次などのデータが無いのですが、国絵図は慶長 10 (1605) 年、正保1 (44) 年、元禄 10 (97) 年、天保6 (1835) 年のどれかなので調べればわかりますが、おそらく天保でしょう。 この近世絵図には、小貝川の川名は入っていませんが鬼怒川のもう一本東側の川がそれです。小貝川以西が下総国ですね。 鬼怒川と小貝川に挟まれた土地は途中までが下総ということのようです。本宗道、鯨、谷田部は下総、堀篭から北は常陸というのがわかります。現在の糸繰川が境界に相当します。 おそらく、時代が変わっても鬼怒川の上流の結城までが下総ということが重要なのだと思います。 将門時代や中世まではこの絵図ほど使える土地は多くなくて、無数の支流と広大な氾濫原が広がっていたのでしょうね。
2020-06-26 Fri 08:33 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
これは貴重な国絵図ですね。
ありがとうございます。 >現在の糸繰川が境界 では、過去の糸繰川はどうだったかというのが問題ですが、下の1000年前の川の図によると、 https://www.i-kouiki.jp/imbanuma/environment01.html 小貝川(子飼川)と鬼怒川(毛野川)は、下妻で東西につながっていたようです。ここが境ということだったのでしょうか。何となく、川としては不自然ですが、ここは砂沼が溜め池として人工的に制御されてきたこともあるので、そういうこともあるかもしれません。 >時代が変わっても鬼怒川の上流の結城までが下総 一方、結城の西側には下野まで目立った川はなく、ここは台地なので東西に川が流れるとも思えません。下総の北端は人為的に決まっていたのでしょうか。 それにしても、現代の感覚では、「栃木県」の小山の城下から東にちょっと出ると「千葉県」ということになり、びっくりです。
2020-06-26 Fri 12:18 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>何となく、川としては不自然ですが〜
南北は高低差で流れるでしょうが、一旦決壊すれば高低差のない東西方向にも流路ができてしまうのでしょう。 >下総の北端は人為的に決まっていたのでしょうか。 下野についてはまだ勉強が進んでいないのですが、結城氏は小山氏ですから、同族として棲み分けしていたのかも。その北側は国境を挟んで同族の宇都宮氏と笠間氏です。この宇都宮氏連合が下総の北限を抑えていたと考えられそうです。 >現代の感覚では、「栃木県」の小山の城下から東にちょっと出ると「千葉県」ということになり、びっくりです。 群馬県・栃木県、埼玉県の県境にはこんなところがあります。 https://bit.ly/31n9ZXl それよりも、現在下総は千葉県のオメージなので、小山の隣に下総があったという方が意外性があっておもしろいです。
2020-06-27 Sat 13:18 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
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