2017-10-11 Wed 00:00
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>神郡に駐車してつくば道を直登
閉まっていて残念でしたね。もっと楽をして、神郡から車で登ると神社近くになるとコンクリートか石畳みたいな道になりますよね。 ところで、この神郡(かんごおり)というのは読めそうで読めない難読地名で長らく「かんぐん」だと思っていました。つくば市には、他に意外な難読地名として金田(こんだ)というのもあります。
2017-10-11 Wed 19:15 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>もっと楽をして、神郡から車で登ると神社近くになるとコンクリートか石畳みたいな道になりますよね。
一の鳥居ですね。そこにも市営駐車場があります。あそこに停めれば人出の多い時にも止められそうなので案外と穴場かも。でも、昨日は歩くのも目的だったので、これはこれでよかったのです。 >難読地名で長らく「かんぐん」だと思っていました。 神郡(かんごおり)も金田(こんだ)も、お城歩きのおかげで自然に身につきました。 >つくば市には、他に意外な難読地名として つくば市が併合した地域は歴史のある土地なので、読みにくい地名が多いです。読みにくいけどなんともいえない趣とか時間の長さを感じる地名を挙げてみました。安食(あじき)、天宝喜(あまぼうき)、長高野(おさこうや)、面野井(おものい)、手子生(てごまる)、百家(はつけ)、泊崎(はっさき)、古来(ふるく)、洞下(ほらげ)、水守(みもり)、、、。 おまけですが、誰が名付けたのか、流星台なんてのもありますね。
2017-10-11 Wed 20:13 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>なんともいえない趣とか時間の長さ
どれも読めそうで読めず、言われてみると納得という感じです。こういうのは、あづま言葉ではなく、大和(機内)から来たことばなんでしょうか。 >流星台 は、りゅうせいだい でいいんですか。
2017-10-11 Wed 20:46 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>大和(機内)から来たことばなんでしょうか。
どこから来た言葉なんでしょうかね。 流星台は「りゅうせいだい」の様ですね。金田城の真西800mあたりです。
2017-10-11 Wed 21:51 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>どこから来た言葉なん
何となくですが、京都の北のほう~丹後までの難読地名と似た雰囲気ではないですか? 太秦(うずまさ)、車折(くるまざき)、安栖里(あせり)、石原(いさ)、河守(こうもり)、間人(たいざ) 今の京都に近いところから、日本海までありますが、たぶん、朝廷関係の人がつけた名前だと思います。場所柄、朝鮮系もあるかもしれません。 いかがでしょうか。 筑波の周辺も、平沢官衙とか、平将門とか、小田城と北畠親房とか中央との直接のつながりがあったようではないでしょうか。 >流星台は「りゅうせいだい」 見つけました。古い地名なんでしょうか。比較的近所なのにうかつにも知りませんでした。 このへんは昔は、新治郡柴崎村と花室村の間くらいだと思うのですが、その時代に農地だったか、林だったかどうでしょうか。
2017-10-11 Wed 22:31 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>何となくですが、京都の北のほう~丹後までの難読地名と似た雰囲気ではないですか?
S.Uさんが挙げた京都、丹波地方の難読地名は日本語の音からの外れ具合からして大陸的ですね。それにくらべると、筑波のそれは大和言葉だと感じました。 >流星台は「りゅうせいだい」 柴崎の大堀切があったあたりなので過去に何度も行っていますが、流星台は記憶ありません。新しいと思われる地名なので興味を引かなかったのだと思います。
2017-10-13 Fri 07:24 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>丹波地方の難読地名は日本語の音からの外れ具合からして大陸的
全体的傾向としてはそうですね。北近畿→京都は、長年にわたって朝鮮人のルートでした。 長高野(おさこうや)、百家(はつけ)などは、何となく中国的じゃないでしょうか。高野は仏教聖地としての山のなですが「こうや」と「たかの」と2通りの読みがありますね。 >流星台 おそらくものすごく古い地名ではないのでしょうが、もしこれが、武士の時代に付けられた名前だったら面白いと思います。
2017-10-13 Fri 08:59 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>流星台〜もしこれが、武士の時代に付けられた名前だったら面白いと思います。
S.Uさん、鋭いですね。中世につけられた地名であったとすると、「台」はお城とほぼイコールなのでそこにお城があったことになります。 陸軍の迅速測図を見ると明治初年時期には森林と畑地だったようです(金田城の西側は茶乃畑とあります)。 https://goo.gl/UuU9JB ただいまこの地図を見ながら流星台と関係しそうな怪しげな場所を発見しました。流星台の文字のある箇所を通る様に北西から南東にかけて台地を掘り切るとそこから南側の台地を独立させられます。そしてその南端部はまさに堀切によって小さな曲輪状になっています。ストリートビューで見たところいまは大藪の様に見えますが、もしかすると何か残っているかもしれません。機会があったら見に行ってみます。知られている大堀は流星台の北西の「椚」の東側の谷津頭とさくらの森の文字のある谷津頭とを掘り切ったもので、金田城、流星台を含み花室城あたりまでも独立させる大きな仕掛けだった様に見えます。
2017-10-13 Fri 09:48 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
農地の由来を示す便利な地図があるのですね。
ここは、河岸段丘のような地形を人工的に削ったものでしょうか。その丘のような所の多くがむかしはお城だったということでしょうか。北の方はよく分からないのですが、学園線のすぐ北側のJAつくば市のへんが急に高くなっているのと、学園線の南側で、花室城が九重のほうに張り出しているあたりは、自然の盛り上がりなんでしょうか。 流星台のへんは以前は藪だったにしてもそんなに高かった様子はないように思います。でも、「台」の一部ではあったのでしょうね。 で、地名表記を調べてみましたが、「流星台」は住所表記としては2011年からで、それ以前に、字としては見つからないので、住宅地開発で新規に命名された可能性が高いように思います。それ以前は、関連する小字名などがあったのかもしれませんが、藪では登記簿でも見ないとネットではわからないかもしれません。
2017-10-13 Fri 12:40 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>農地の由来を示す便利な地図
本来はそれが主たる目的ではなかったと思いますが、明治初年時に作られた陸軍のフランス式迅速測図は、近世の地形と土地利用(中世をも想像可能)を知るための手掛かりとして、素晴らしい史料です。おまけに地図に芸術の趣が加わっています。このページのタイトルの右側の風景画ですが、こうしたスケッチが、地図の余白にたくさん描き込まれています。それは単に風景を記録したわけではなく、地形的に記録に値すると考えて描いたものだと思います。残念ながら、この後、我が国の地形図はそっけないドイツ方式に変更になってしまいます。どのくらいの範囲はフランス式迅速測図でカバーされているのか知りませんが、残っている地域にとっては宝物です。 >その丘のような所の多くがむかしはお城だったということでしょうか。 お城はあんまり広すぎても守りきれないので、舌状台地の先端部を掘り切って曲輪にすることが多いです。戦闘目的でない台地上の広々としたところは畑や燃料補給の森林として誓われていたと思うので、やはりそこも守るべき領域になっていたはずです。そのために台地のけっこう付け根にも防御用の堀切が設けられたと思います。 >学園線のすぐ北側のJAつくば市のへんが急に高くなっているのと、学園線の南側で、花室城が九重のほうに張り出しているあたりは、自然の盛り上がりなんでしょうか。 桜川と花室川に挟まれた台地は桜、花室、吉瀬、高津、大岩田と伸びていきますが、花室あたりですごく細くなってさらに谷が奥まで入り込んで、住むにも守るにも良さそうな場所です。花室城は九重のほうに張り出していますか? >「流星台」 新しいのですね。
2017-10-13 Fri 16:29 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>花室城は九重のほうに張り出していますか?
城郭用語については、『続 図説 茨城の城郭』の用語集をあたるべきですが、堀切になっているかどうかは別にして、花室の八坂神社のすぐ南の土浦学園線のさらに南側が郭状に、現在の花室と上ノ室の地区境まで張り出しています。また、上ノ室側にもそれに向かい合うみたいにつくば市立上ノ室保育所のところが丸く盛り上がっています。学園線の北側のJAつくば市のところも南側が廓みたいに丸く土手みたいになっています。グーグル地図の航空写真の3Dで見るとよくわかります。 >「流星台」 「○○台」という地名は、山際を切り開いた新興住宅地にあればほぼ新地名なんでしょうが、古い村と村の間にあると、地名が古い可能性も考えます。
2017-10-13 Fri 17:45 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
花室城周辺の地形と城郭位置を図にしてみました。
https://goo.gl/Sg77JR >土浦学園線のさらに南側が郭状 学園戦の南側に飛び出したところが花室城の主郭です。 >つくば市立上ノ室保育所のところが ここが上ノ室城です。 >JAつくば市 ストリートビューで周囲を歩いてみましたが、城郭関連施設的な雰囲気はありますね。
2017-10-13 Fri 22:56 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
近所はお城だらけですね。金田城くらいまでなら散歩可能圏内なので、また行ってみます。
花室川の東側を東に向けて進むと、農地の次にほとんど人家がなく突然段丘になっているのが不思議だったのですが、高地の西側のエッジを防御壁として活用する理由でこうなったのであれば理解できます。 世界に向かって展開している御ブログとは思えない、ローカルな話題になりました(してしまいました)。
2017-10-14 Sat 06:41 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>花室川の東側を東に向けて進むと、農地の次にほとんど人家がなく突然段丘になっているのが不思議だったのですが、高地の西側のエッジを防御壁として活用する理由でこうなったのであれば理解できます。
近代以降の土地利用については詳しく無いですが、少なくとも花室城周辺は戦国後期に佐竹氏と小田氏の間で取ったり取られたりが繰り返され、最終的には佐竹氏の支配下に置かれ、戦国の終わりとともに廃城、農地化されたのだと思われます(『続・図説 茨城の城郭』より)。
2017-10-14 Sat 07:27 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
よく柳田國男学派の民俗学で、日本の農村の原形パターン(原風景と言ってもいいのですが)、ムラとムラがあり、間に森があり神社があり、山があり、山裾には炭焼きや鍛冶屋が住んでおり、河原があり、墓があり・・・というのがあって、ああいうのにちょっと拘りすぎているのかもしれませんが、それに加えて、城郭があり、土塁があり、というのも加えないといけないのでしょうね。古墳がしばしば開墾できない聖地になっていることもあります。
かすてんさんに書き込みを作っていただいた航空写真の範囲でも、花室城、柴崎、妻木は近世にあった村ですが、花園のへんはつい最近まで森でしたし、流星台も藪だったのですね。川が氾濫するということもあったのかもしれませんが、もともとは意味のある配置になっていたのではないかと思います。
2017-10-14 Sat 09:25 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>〜それに加えて、城郭があり、土塁があり、というのも加えないといけないのでしょうね。
少なくとも、中世、近世、近代のはじめにかけての風景はあまり変わっていなかったと思われますし、ずいぶん壊されはしましたがその延長である現在を考えるにも基本になる風景構成物だと思います。 >川が氾濫するということもあったのかもしれませんが、もともとは意味のある配置になっていたのではないかと思います。 現代の川はまっすぐに成形されて端正ですが窮屈そうですね。川の周囲の現在田んぼになっている範囲はほとんど氾濫原、湿地だったと思うことにしています。そう見ると、台地のちょっとした突端部もけっこう防御性が高く見えてきます。
2017-10-14 Sat 20:30 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>現代の川はまっすぐに成形されて端正
高地の下の低地は湿地帯になりやすいですね。この程度の大きさの川は、近世~近代においては、水田と生活用水(おおむね洗濯)に必須でしたので、その便を考えて整備されていると思います。花室あたりの歴史は詳しくないですが、金田、柴崎に比べると、花室あたりは城や湿地帯があったことを考えると、それよりも後にできたものかもしれません。(まあ、古い新しいといっても、戦国時代と江戸前期くらいの違いの話でしょう)。 自然地形、交通、産業を考慮した村の発達史というのは興味深いところで、議論が止まらないと思うので、これはまたところを改めてさせていただきたいと思います。
2017-10-15 Sun 06:05 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>自然地形、交通、産業を考慮した村の発達史というのは興味深いところで、議論が止まらない
霞ヶ浦周辺の地形が作り出す景観の面白さについて話し始めたら止まりませんね。ここで一旦締めとしましょう。
2017-10-16 Mon 11:01 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
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| 霞ヶ浦天体観測隊 |
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