2016-06-23 Thu 00:00
・内田樹:大学のグローバル化が日本を滅ぼす
「「学ぶ資格がないのは誰か、教える資格がない学校はどこか」という問いを突き詰めてゆけば、日本人の相当数は高等教育を受けるだけの知的な備えがないという驚愕すべき現実に直面せざるを得なくなる。それは過去数十年の文科省の教育政策が根本的に間違っていたということを認めるに等しい。」 「「それならいっそ『4年間留学必須』にすればいい。〜そして、その「何もしていない大学」の「グローバル度化」がどれくらいのハイスコアになるかを知って驚愕することになるでしょう。」 「英語による授業数もグローバル化度の重要な指標ですが、日本語で最先端の高等教育が受けられる環境を100年かけて作り上げたあげくに、なぜ外国語で教育を受ける環境に戻さなければいけないのか。僕には理由がわかりません。」 「大学のグルーバル化は国民の知的向上にとっては自殺行為です。」 |
>過去数十年の文科省の教育政策が根本的に間違っていた
現象論的な原因と結果はそうでしょうが、ただ黙々と企業の手足として働く労働力を大勢育てるという目的においては成功したと言えるのではないでしょうか。やっていることが、あまりにも見え見えで、大学本来の趣旨から外れていますので、こういう見方になります。 >日本語で最先端の高等教育が受けられる環境を100年かけて作り上げた 物理学、天文学に関して言えば、蘭学以来ですからもう200年ですね。司馬江漢、志筑忠雄、高橋至時・景保といった先達たちのおかげです。 くどいようですが、スーパーマーズ、ストロベリームーンなどという怪しげな横文字よりも、大接近、冬至点といった漢語のほうが学問の進展にははるかに有意義です。このような漢語に西洋の近代科学の概念を盛り込んでくれたのが江戸時代の蘭学者です。
2016-06-23 Thu 12:50 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>ただ黙々と企業の手足として働く労働力を大勢育てるという目的においては成功したと言えるのではないでしょうか。
最後の「大学のグルーバル化は国民の知的向上にとっては自殺行為です。」とも関係しますが、「国民の知的向上」を目指していないですから大成功を収めていますよね。そういう意味ではS.Uさんは戦後文部省教育の失敗作ということになりそうです。 >蘭学以来ですからもう200年 >漢語に西洋の近代科学の概念を盛り込んでくれたのが江戸時代の蘭学者です。 世界史的視点から見てもものすごい知性なのではないでしょうか。
2016-06-23 Thu 17:37 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>大学のグローバル化
最近は、大学もグローバル化一点張りでは日本人について来てもらえないと思ってか、「グローカル化」というのがむしろ流行ってきているようです。これは国際化と地方活性化を合わせたような概念らしく、まことにけっこうではあるのですが、単なる地域的な産学共同事業になったり、街興し事業になったり、結局、日本の田舎なべて同じ結果になりそうで、具体的にあまり意気が上がりそうにはありません。 グローバル化といってもすぐにはできない地方の国立大学の悩みは深いので、グローカル化で地元の人に助けていただくという効果はあるかもしれません。 >戦後文部省教育の失敗作 知性もなく、金と力もなく、さりとて色男でもありませんが、人畜無害で、文句ばかり言わせてもらって多少世間のお役にたてないかと思っています。 >世界史的視点から見てもものすごい知性なのではないでしょうか。 蘭学者の知性を国際的に評価するというのは、できるものならやってみたいですが、実は相当難しいようです。科学の分野では、蘭学者が西洋人を圧して成果を挙げたということはありません。だからといって知性が劣っていたといえず、そもそも蘭学者は西洋科学をほぼ独学している状態で通信教育の学生のようなもので、いくら優秀な学生でも世界屈指の先生をすぐに上回ることはできななくて当然というべきでしょう。 いっぽう、蘭学とは直接関わらない分野、たとえば日本だけ、あるいは日本と中国・朝鮮だけのような文化伝統で考えられる、和算、儒学・朱子学(東洋自然哲学)、建築とか美術とかでは、日本が中国と競い合う分野もあれば、一時的にも西洋に先んじた分野もありますので、その国際的レベルの比較はかえって簡単であるように思います。 「世界史的視点から見た知性」という意味では、蘭学者の多くが、西洋科学を学ぶ前も学んだ後も、依然として高レベルの東洋の哲学と教養の知識人であったといういうことではないかと思います。すなわち、東洋の哲学者が実学あるいは余技のために西洋科学を勉強し、元の教養の助けを得てそこそこのレベルに到達したというところが評価できます。西洋の実学者で東洋の哲学を学んだ人、あるいは西洋の哲学者で東洋の実学を学んだ人がどれほどいたか、中国へ来たキリスト教関係者ではけっこういたかもしれませんが、日本の蘭学者はそのあたりに匹敵する世界史的意味があるのではないかと思います。 あるいは、彼らの貢献は、福沢諭吉以後の明治以降の日本の発展で評価するのが一般的かも知れません(でも、私はこれではありきたりであまりつまらないと感じます)。 私がこのようなことを知るきっかけになったのは、中山茂先生の『日本の天文学―西洋認識の尖兵』 (岩波新書) でした。
2016-06-24 Fri 07:04 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>そもそも蘭学者は西洋科学をほぼ独学している状態で通信教育の学生のようなもので、いくら優秀な学生でも世界屈指の先生をすぐに上回ることはできななくて当然というべきでしょう。
S.Uさんの例えはいつも笑いを取りながら的を得ていてます。 >蘭学者の多くが、西洋科学を学ぶ前も学んだ後も、依然として高レベルの東洋の哲学と教養の知識人であったといういうことではないかと思います。 取り巻く環境はグローバルではなかったにもかかわらず、現代の文科省的偏狭なグローバル感覚ではないところに知性を感じます。 >『日本の天文学―西洋認識の尖兵』 読まれたのは中学生時代ですか。
2016-06-24 Fri 23:28 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>文科省的偏狭なグローバル感覚
西洋の学問と東洋の学問の違いと共通点を踏まえた上で、両者をうまく両立させようとしたところはよかったです。また、幕末頃の西洋文化の取り入れ方も、材料だけ仕入れたり、日本で対応するものを見つけて日本式でやったり、西洋のシステムを丸ごと取り入れたり適材適所で柔軟にやっていることが注目されます。 確かに、これに比べれば、現在のスローガンの「グローバル化」はアホウみたようなものです。 >中学生時代 この本は、大人になってから、それも30歳くらいになってからだと思います。この本は出版直後から天文界では評価が高かったので、本屋とか図書館で立ち読みしたことくらいはそれ以前にもあったかもしれません。 私の関心は、西洋天文学史と東洋の暦学から始まって、日本天文学史→蘭学と進むのに30年くらいかかりました。
2016-06-25 Sat 07:33 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>適材適所で柔軟にやっていることが注目されます。
前例のないことに対処しなくてはならないことが多かったのでエリートの知性が発揮される機会が多かったのだと思います。現在の硬直化した官僚主義下では、前例のないことに対応するのに的外れな前例を適用してその場をやり過ごすのがエリートの知性の使い方になっているので、アホウみたいなことになりますね。 >出版直後から天文界では評価が高かった 1972年秋発行なので自分は高1の時で、当時は毎日下校途中に書店に入り浸っていましたが、この本の存在は記憶になかったです。
2016-06-25 Sat 12:00 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>前例のないことに対応するのに的外れな前例を適用して
政治家は財界等からの要望により、官僚はキャリアのために、むりやり改革めいたことをしてお茶を濁さないといけない事情があるようです。ところがいかんせんまともなことができる知恵も実行力もないので、的外れな前例で現場に迷惑をかけ、失敗しても「前例の趣旨に従った」と言い訳して自分の責任は逃れることにしています。 皆が皆そうだとはいいませんが、90%くらいはそうじゃないでしょうか。 でも、ひどいのは日本だけではなくて、最近は他の国でも似たようなもののようです。 将来的には、日本の江戸時代の封建制のようなものが世界的に評価されるようになることもあるでしょうか。(ここでの封建制というのは、大名・家老・奉行等の体制のことです)。 >当時は毎日下校途中に書店に入り浸って 当時の岩波新書は、深緑色の表紙でカバーもなく、安っぽそうで目立たなかったですね。安っぽいのは、本当に安ければ、学生には悪いことではありませんが。 (本当は、昔の岩波文庫のような硫酸紙のカバーがついていたかも) この時代の岩波新書で、私が比較的新刊で買った最初の天文書は、古在先生の『月』でした。たぶん高校の時だったと思います。当時の田舎の書店では岩波新書の平積みなどなく、新しいのも古いのも同じように棚に立っていましたが、番号順になっていたら新しいのは端のほうにあったかもしれません。
2016-06-26 Sun 06:21 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
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