33年の時間を巻き戻し天文少年ならぬ天文壮年へ再入門。隊員1名、200mm、65mmの望遠鏡と双眼鏡で星空を楽しんでいます!
佐原小野川で土浦桜橋・川口川の幻を見た
2015-06-10 Wed 00:00
昨日は潮来のあやめ祭りへ行った足で佐原を回って来たことを書いたが、佐原のことをもう少し書き足しておきたい。

1506082.jpg佐原の旧市街、小野川を核にしてかつての賑わいを偲ばす風情ある街がいまも拡大していることをここを訪れるたびに感じる。それを追うように観光客も確かに増えている。旧三菱銀行のレンガ造りの建物は佐原町並み交流館としてギャラリーや観光案内所になっていて、そこのボランティアの方が言っていた。「太平洋戦争中は空襲を免れ、抽選で決まっていた建物疎開も男手不足で延び延びになっていたのが昭和20年8月20日にいよいよ断行という直前に終戦になったおかげで近世の街並みが残った。その後の景気低迷の時代、車が入って来られないから町が活性化しないというのがそのころの考え方だったので、小野川を暗渠にして駐車スペースを増やす計画があったけれど、いろいろな事情でできなくて良かった。暗渠にしていたらいまの佐原は無かった。何も無くなっていたと思う。佐原は建物疎開と暗渠化を逃れたという二つの幸運のおかげで今があると思う。」と。佐原の者は盆暮れには戻らないが祭りには戻るとご自慢の祭り(佐原の大祭)について語ってくれたが、街がなくなっていれば祭りも廃れていたことだろう。

ジャージャー橋から北を望んだこの風景、どこかで見たことがあるような、、、。

かつて水路が残っていた頃の土浦桜橋を南側から見た保立俊一さんの絵を思い出さないだろうか。佐原の風景がこの絵とあまりにそっくりなので驚いてしまう。

土浦の昔の絵が佐原の現在に重なり、それが土浦の未来に見えてきた。30年後の土浦、こういうのが良いのではないだろうか。

1506092.jpg
[左から、現在の土浦桜橋、保立俊一さんの絵、妄想桜橋、未来の桜橋(現在の佐原)]
別窓 | 雑感 | コメント:7
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この記事のコメント
佐原へお越し頂きありがとうございます。写真の辺りは私の小学校への通学路でした。

建物疎開や暗渠の話は初めて聞きました。佐原は戦闘機からの機銃掃射なら受けたことはありますが、爆撃はなかったのでひょっとしたら米軍上陸への備えだったのかな、と思っています。

見慣れた風景ですが、際どいところで全く違った風景に変わっていた可能性があったのですね。
2015-06-10 Wed 14:02 | URL | オカ #-[ 内容変更]
佐原の町並みはきれいですね。私も伊能忠敬の博物館と旧邸を見にここへ来たことがあります。土浦とここを比べるのは面白いですね。

 土浦にもこういう堀というのか運河があったのですね。こちらで伊能忠敬に対抗するなら、沼尻墨僊の天章堂ですね。それから、この絵を描いた帆立俊一さんというのは、最寄りの交差点にある保立食堂と関係あるのでしょうか。食堂の天ぷらはおいしいです。

 大型店舗もできたので商店街として維持するのはなかなか難しいことだと思いますが、土浦は、住宅やオフィスはけっこうあると思うので、町並みを整備して、人々が思い思いに憩える街を作るのは良いアイデアだと思います。
2015-06-10 Wed 18:34 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
オカちゃん

話を聞いてみると、七分三分の兼ね合いで残ったという感じです。国内の多くの町が似たような兼ね合いで残ったり消えたりしたんでしょうね。
遠方より(とは限らないけど)知人が来て常総地域を案内する時には、佐原は定番ですよ。みなさん満足してくれます。
でも、初めて行った頃には忠敬橋周辺の小野川、ジャージャー橋、記念館くらいで、それほど強い印象を持ちませんでした。
震災の前頃からぐんと活気が出てきて、震災でダメージもあったけど、現在はさらに良くなっていると思います。町に幅と広がりが出ているからではないでしょうか。

S.Uさん

ご指摘ありがとうございます。字を間違っていました。
保立食堂の保立さんです。
この絵を描かれた保立俊一さんは2013年か14年にお亡くなりになられました。98歳か99歳だったと聞いています。最期まで矍鑠とされていたそうなので、お会いする機会がなかったことが悔やまれます。

上で使った写真はDVDの画面を写真で撮ったものなのであまりきれいでないですが、キララちゃんバスブログにそのDVD収録のことが書かれていて、きれいな絵も見ることができます。
http://tsuchiura-npo.jugem.jp/?eid=281
保立さんインタビューのこのDVDの中で「堀割りが残っていたらなぁ」ということをつぶやかれていて、あぁやはりそうなんだととても共感を感じました。

>商店街として維持するのはなかなか難しいことだと思います
 本当にそうですね。後継者がいて商売を続けようというところはイオンなどへ出ざるを得ないでしょうから。それでも近世、近代以来の歴史あるお店が旧市街で頑張っているのも町の底力の一つと思います。
2015-06-10 Wed 20:44 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
私も小学校への通学路でした。(家が小野川沿いの町内でした。) しかしその頃とは風景がだいぶ変わりました。 当時ジャージャー橋は石製だったし、北側の橋のたもとには小さな交番があったし、小野川は澄んでいてメダカやタナゴがたくさんいました。
最近できた「古い家」が多くなり、「あそこは昔何だったかなぁ?」と級友と思いだそうとするのですが・・分からない家がたくさんあります。
2015-06-10 Wed 21:25 | URL | (の) #zcj9HRiI[ 内容変更]
保立食堂の2階から、昔は、堀割りがきれいに見えたんでしょうね。そういう記憶を残しておくことは大切ですね。土浦や佐原のような名高い町に限らず大事なことだと思います。
2015-06-11 Thu 08:20 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
(の)さんもあそこで育ったのですか。佐原イになるのかな。
お祭りに血が騒ぎますか?(あまり騒がないタイプのようにお見受けしますが、実は祭り期間中は観測そっちのけだったりして)

>最近できた「古い家」
 こういうところは景観条例みたいなものがあるのでしょうね。
2015-06-11 Thu 08:27 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
S.Uさん

保立さんは子供の頃から絵が好きでたくさん描きためていたそうです。いくつかは絵葉書にもなっていて観光協会などで売っていたように思います。
特にかつてタウン誌に連載した回想録をまとめた
保立俊一『水郷 つちうら 回想』
は、絵(モノクロが残念)と文章の素晴らしい本です。

土浦で忘れていけないのはもうお一方(親子というべきですが)、佐賀医院の佐賀進・純一先生が書かれた以下の本ですね(純一さんはこのほかにもたくさんの本を書かれています)。
『土浦の里 絵と伝聞』、『スケッチで綴る ふるさと土浦』、『田舎町の肖像』、『霞ケ浦風土記』
前の2冊は保立さんの本と同じように絵と文章のこれまた素晴らしい本です。

これらの本は土浦古書センターなどで買えるときがあります。

土浦にはこうして記録を残してくれた先人がいますので、街を作り変えるという意志さえ固まれば参考にできる資料は豊富です。
2015-06-11 Thu 09:04 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
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