2007年、33年の時間を巻き戻し天文少年ならぬ天文壮年へ再入門。隊員1名。その後の変化でただいま星空は休眠状態。郷土史、草刈り、読書、ドローンの記事が多くなっています。
送電線マニア
2014-05-12 Mon 00:00
1405071.jpgどんなものでもマニアはいるもので、送電線も趣味になるらしい。そういう自分も小説『鉄塔 武蔵野線』を読んでさらにDVDまで買ったりしているからその気持ちを多少は分かる気がする。[写真はHAMさんの『団地百景』公団桜堤団地より]

ここに紹介するサイトはどれも見応え満点。
送電線
架空送電線(がくうそうでんせん)の話
そこに鉄塔がある

では最後に以下のリンクをクリックして、「送電線建設の歌」をズンドコ節に乗せてお楽しみ下さい。
 送電線建設の歌 作詞:中山秀雄
1.(測量)
  バラや熊笹 踏み分け越えて
    あの山この山 箱尺立てりゃ
  風もなきます おいらも泣ける
    次のお山は なお高い
3.(据付)
  泥にまみれて 据付すんで
    ぐっとひとなで 玉汗拭いて
  あすの天気を 見上げる空に
    雲が流れて 晴れじゃろう
5.(延線1)
  いまから捲くぞの 電話の声に
    遠い山脈 田畑を越えて
  のびる電線 日光に映える
    無事にとどけと 手を合わす
7.(緊線)
  温度何度で 弛(たるみ)みがいくら
    つけた水糸 にらんで決める
  ここが見せ場の 緊線作業
    腰のスパナは だてじゃない
9.(帰社)
  出来た線路を 錦と飾り
    帰る今日の日 夢にも見たが
  かげで見送る 瞳の人に
    肩の荷物が 重くなる
別窓 | 雑感 | コメント:22
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この記事のコメント
>送電線も趣味になるらしい

 趣味ではありませんが、私も案外好きです。子どもの時に、うちの畑の一部が関西電力の鉄塔を建てるのために売れましたので、その後、鉄塔の写真を撮りに行ったものです。北の海から南の大都会まで山を越えて電気を運ぶ鉄塔は、すごいと思いましたね。
2014-05-12 Mon 18:58 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>北の海から南の大都会まで山を越えて電気を運ぶ鉄塔は、すごいと思いましたね。

私は中世のお城に興味を持ってから藪こぎをする様になりましたが、測量や架線設計の為に最初に山に入る人はつくづく偉いと思いました。
送電線によって景観が損なわれてしまった部分もあるでしょうが、武蔵野台地に育った私には送電線はけっこう濃い原風景と言えます。
2014-05-13 Tue 15:07 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>中世のお城に興味を持ってから藪こぎ
 中世軍団も山越え・山城はたいへんだったでしょうね。

>送電線はけっこう濃い原風景
 私にとってもそうです。私の故郷は、幹線鉄道に加えて、送電線と自動車道が走るようになりましたが、地元はぜんぜん発展しません。
2014-05-13 Tue 19:48 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>中世軍団も山越え・山城はたいへんだったでしょうね。

いわゆる街道から大きく外れると大変だったと思います。
反面、もしかすると人間の営みが及ぶ範囲の山は現代ほど荒れていなかったのかもしれません。中世の景観はいまとはかなり違うのではないかと私は想像しています。

>地元はぜんぜん発展しません。

あの地域は大陸と近畿との連絡路としては一級の幹線ですから古代から平安時代頃までに最大に発展し終わったのでしょう。
2014-05-13 Tue 21:29 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>いわゆる街道から大きく外れる~いまとはかなり違う
 江戸時代までは、街道、特に、宿場町、門前町、城下町は独特の賑わいだったといいますね。今の地方都市はどこでも判で押したみたいで、街道の店ではやっているのは量販店とコンビニとサービスエリアくらいです。

>古代から平安時代頃までに最大に発展し終わった
 これもその通りで、自動車道を田圃に建てるときには遺跡が出て工期の支障になりました。

 弥生時代以降の遺跡や、府下最大級の円墳や、平安時代建立の寺院の参道が今は藪や田圃になっているところにあったのですが、不思議なのは、その近辺は現在では、洪水で頻繁に水没するところなのです。古代には洪水が起こらなかったのか、起こっても問題なかったのかよくわかりません。
2014-05-14 Wed 07:18 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>不思議なのは、その近辺は現在では、洪水で頻繁に水没するところなのです。古代には洪水が起こらなかったのか、起こっても問題なかったのかよくわかりません。

いつの時代かに河道がおおきく付け替えられた事は無いのでしょうかね。昔の人は危険と分かっている場所で集落などは営まなかったはずです。
2014-05-14 Wed 08:46 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
ものは考えようで、頻繁に洪水が起こるということは上流からの肥沃な土砂が定期的に供給されます。それと山といえば現代では鬱蒼と茂った山ばかりですが、近代以前は皆さん薪に切ってしまうので、禿山ばかりだったと聞いたことが有ります。
2014-05-14 Wed 10:11 | URL | ugem #-[ 内容変更]
>頻繁に洪水が起こるということは上流からの肥沃な土砂が定期的に供給されます。

水没するところが耕作地であればそうかもしれませんね。住居址のあるところがたびたび水没するのはやはりおかしいので、その後に地形変化があったのだろうと思います。

>近代以前は皆さん薪に切ってしまうので、禿山ばかりだったと聞いたことが有ります。

その通りなんですね。上に「人間の営みが及ぶ範囲の山は現代ほど荒れていなかった」と書きましたが、人里に近いところは荒れる余裕も無く禿げ山になってしまうみたいです。
2014-05-14 Wed 11:38 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
ugemさん、かすてんさんのおっしゃる通りで、盆地の中なので、河の場所が大きく変わることは考えられませんが、高低関係は変化していると思います。福知山付近には古代には大きな湖があったという伝説があり、今のように由良川が城下の付近で直角に曲がっているということもなかったと考えられるので、下流の水はけがよくて、中流域の洪水はましだったということもありえます。
 
 洪水が起こるようになったので、街道が耕作地になったと考えられますね。
2014-05-14 Wed 18:59 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
由良川は今よりも西側、山陽本線の辺りを流れていたことは無いでしょうかね。福知山にはまさにこういう疑問に答えてくれそうな治水記念館なる施設がありますね。
2014-05-14 Wed 19:31 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>由良川は今よりも西側、山陽本線の辺り
 西側というと、山陰本線の 福知山-上川口 間 のことですね。下のページの中程の地図を見ると、確かに現在の福知山駅付近を流れていたことになっています。

http://www.koutaro.name/machi/fukuchiyama.htm

 これはどれほど確証があるのかはわかりませんが、現在の土師川と由良川の合流点は不自然なので、人為的に作られたものといいます。堤防を整備したのは明智光秀と言われていますが、本能寺の変まで3年しかなかったので、どれほどの工事が出来たのかどうかはわかりません。明智光秀以前の洪水記録については、聞いたことがありません。かすてんさんが西日本の中世にもお詳しければまたお教え下さい。

>治水記念館
 最近出来たものみたいですね。まだ訪れたことはありません。町家を改造したものみたいで、そのへんの付近はだいたいわかります。
2014-05-14 Wed 20:49 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>西日本の中世にもお詳しければまたお教え下さい。

詳しくないですよ。福知山の地図を眺めて由良川の気持ちになってみたらその辺りを流れたくなっただけです。おそらく現在の市街地域は洪水の度に何度も河道が行き来したのではないでしょうか。ある時には大きな池だったかもしれません。ただ、縄文弥生の頃の人たちはおそらく安全な台地の上に住んでいたでしょうね。
2014-05-14 Wed 22:19 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>由良川の気持ちになってみたら
 なるほど、これは山師の経験から来る勘ですね(もちろん、山師は本来のいい意味でのものです)。

 下のページにある遺跡の地図を見ると、この遺跡がかつての川沿いにあったとすると、かつて由良川は、もっと西まで行っていて、河道はなめらかになるものの全体的な曲がり方はより鋭角になると思います。大昔は湖だったとみるのが妥当かもしれません。少し南の武者ヶ谷遺跡は縄文草創期からあると言われていますので、このあたりは水没することはなかったのでしょう。
 
 北近畿は文献が多くあるわりに中世以前のことはあまり有名でないので(あまり面白くないのかもしれませんが)、またご興味があればご研究下さればありがたいです。

(福知山河川国道事務所)
http://www.kkr.mlit.go.jp/fukuchiyama/river/iinkai/siryou01/6_41.html
2014-05-15 Thu 07:25 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>山師の経験から来る勘ですね

山勘ってやつです。

あ、山勘が出たついでに、その語源と言われる武田の軍師山本勘助と土浦城との関係について。

山本勘助は土浦城の最終的な姿の設計もしている様です。
時代が合わない?
有名な初代は第4次川中島の戦いで死にましたが、彼の縄張り設計技術は山本勘助ブランドとして続いた様です。直系の子孫ではないですが山本勘助4代目(だったかな?)が、土浦城北門と南門の、今は無いですが、大きな馬出を作ったみたいです。特に土浦城北門の重ね馬出は他所に例のない不思議な形ですし、外郭に馬出しを備えている近世城郭も土浦城だけらしいです。土浦城は地味ですが、城郭設計上はちょっと異色な構造なのです。
2014-05-15 Thu 08:49 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
えっ! 「ヤマカンが当たった」のヤマカンは山本勘助ですか。
じゃぁ、「試験でヤマをはって当たった」のヤマも山本ですか。

 それはそうとして、土浦城は、現在は素人目にはほとんど建物がなくて構造がよくわかりませんが、(というよりは、外のほうは、博物館やら小学校やら裁判所になっているのですよね) 歴史の研究上ではよくわかっているのですね。
 以前に姫路城に行ったときは、付属の建物が多く残っていて城の構造がよくわかりました(姫路城と言えば「クロカン」ですね)。姫路城も福知山城も小高い丘の上に建っていますが、土浦城は完全に平地なので、デザインの自由度は大きかったでしょうね。
2014-05-15 Thu 18:43 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>土浦城は、現在は素人目にはほとんど建物がなくて構造がよくわかりませんが、

そう感じられますか。私は櫓や門がよく残っているなと感じます。西櫓は台風で倒壊したのを部材を利用して再建しましたし、東櫓もかなり忠実に再建されていますし、太鼓櫓門は本物ですし、小さいですが、北東側の霞門も本物です。本丸には役所機能を持った庁舎があったのですが明治の初めに焼けてしまったようです。裁判所のところには外丸御殿があり城主の居宅でした。堀に沿って小学校の辺りは高級官僚たちの官舎が並んでいました。

>姫路城も福知山城も小高い丘の上に建っていますが、土浦城は完全に平地なので、デザインの自由度は大きかったでしょうね。

前者は平山城、後者は水城といって、立地条件が全く違います。現在桜川は土浦の街の西側を流れていますが、土浦城は付け替え前の桜川の河口の中州にあったお城です。洪水に見舞われる危険がある一方で、水城は守りが堅いのです。洪水を巧くやり過ごす知恵があったはずです。
2014-05-15 Thu 22:08 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>そう感じられますか
 何をもってよく残っているかというかですが、確かに土浦城は、中心部分の門や櫓や緩やかな起伏は残っています。でも、素人は、城跡と言えば、石垣やら外堀やらが見たいもので... 土浦城は幕末まで広大な水堀があったのではないかと思いますが、都市化でなくなってしまったのはやむをえませんね。
 
 福知山城は平山城ですが、やはり河川を利用して水堀を引いていたそうです。Wikipediaの絵図面はわかりにくいですが、(明智光秀肖像の下の図)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%9F%A5%E5%B1%B1%E5%9F%8E

上が東で中央上から来るのが自然の由良川、右上が土師川で、その下にほぼ平行にあるのが人造の外堀、左に伸びるのが改修後の由良川と思われます。京口とある橋の付近では、現在でも蛇ヶ端(じゃがはな)とか松縄手(縄手は堤道のことか)という地名が残っています。
2014-05-16 Fri 06:21 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>土浦城は幕末まで広大な水堀があったのではないかと思いますが、都市化でなくなってしまったのはやむをえませんね。

そうなんですよ。土塁は、東光寺、浄真寺、神龍寺にわずかに残るだけです。水堀も亀城公園だけに残っていますが、それ以外はすべて埋められてしまいました。でも、暗渠になっているところが多いので土浦の地図を眺めると昔の城の形が浮き上がってきます。
その参考になると思い下のような地図を2003年頃に作りました。
http://blog-imgs-68.fc2.com/k/a/s/kasuten/tsuchiura69.jpg
(ちょっと自慢させてもらいますと)これを見た土浦市の学芸員さんがさらに分かりやすい地図を作ってくれて、市立博物館と上高津貝塚ふるさと歴史の広場資料館に掲示してあります。

近代の町づくりでは土塁や特に水路・堀は邪魔者として壊されてしまいますが、後者は案外暗渠になってその上に道が残るので、その曲がり具合などが昔を知るよすがになります。また、昔水路のあった街の形には水路の消えた現在の地図を眺めても魅力は残っているものです。福知山にもそのような水路跡の道があるはずですね。
2014-05-16 Fri 07:16 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>下のような地図
 これはすごいですね。外堀というのか中堀というのか知りませんが、その外側が主要な商店街になっているのがよくわかります。大手町は、大手門の前だったのですね。

>福知山にもそのような水路跡
 どうなんでしょうね。私の知る限り、城に登る東側の絶壁以外は堀の構造はよくわかりません。城の周囲の北・西。南の大半は、山陰本線と福知山線の合流点と福知山-綾部の府道を造ってならされてしまったようです。

 北側の町家の通りや商店が軒を並べていた様は、けっこう残っています。土浦も福知山も都の北の交通の要衝という意味では共通していますが、城の造りの違いが市街の発展状況の違いになっているようです。
2014-05-16 Fri 19:40 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>北側の町家の通りや商店が軒を並べていた様は、けっこう残っています。

福知山の古絵図と現在の地図を見比べてみましたが、市街化が激しくて、城址公園周辺以外は水路や土塁の残存は良くないようですね。常照寺と治水記念館の中間の道の曲がりは古絵図に描かれているもののように思われます。また、空襲や大火が無かったならばこの碁盤の目状の町並みは古そうですね。

S.Uさんご紹介の福知山城のWikiを見ていてびっくりです。土浦城主だった朽木氏はその後福知山城主となって幕末まで治めたということです。朽木氏と入れ代わりに土屋氏が土浦城主となり途中3年ほど松平が入った時期はあるものの幕末まで治めました。土浦と福知山がこのようなご縁があったのは驚きです(すでに教えていただいていましたっけ)。
2014-05-16 Fri 21:29 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
おぉ、お城に造詣の深いかすてんさんに、我が郷土の城下を分析していただけるとは光栄です。道の曲がりとは、さすが目の付けどころが細かい。
 福知山の旧市街の町家は、私の子どもの頃の記憶では、普通の古い家だったように思うので、明治、大正、戦前に建てられた木造商家が中心ではないかと思います。土浦の中央一丁目付近にもその頃の木造の商家が残っていますね。土浦は洪水で水没したことはないそうですが、福知山は昭和になってからも水没しています。

>土浦城主だった朽木氏はその後福知山城主となって
 はい、朽木氏は土浦から移動しました。朽木昌綱は、蘭学にはまった殿様として有名です。また、土浦の西の谷田部藩の細川氏は、福知山の北の宮津の城主で細川ガラシャ(明智光秀の娘)で有名な細川忠興の弟の興元が初代藩主です。ほんと驚くことが多いです。
2014-05-16 Fri 22:30 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>土浦は洪水で水没したことはないそうですが、

そうでもないですよ。
土浦市立博物館収蔵品展『つちうらの洪水記録』によると、明治以降でも、明治3年、明治29年、明治43年、昭和13年に大規模な洪水があったようです。明治28年に開通した日本鉄道海岸線(後の常磐線)は、洪水の防御堤の役割を果たすことを条件に建設が許可されたと聞いています。
2014-05-17 Sat 22:09 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
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