33年の時間を巻き戻し天文少年ならぬ天文壮年へ再入門。隊員1名、200mm、65mmの望遠鏡と双眼鏡で星空を楽しんでいます!
乗鞍宇宙線観測所60年
2013-08-23 Fri 00:01
・宇宙見つめる山小屋 戦後日本の素粒子研究を導く 乗鞍宇宙線観測所60年

norikura.jpg現在の東京大学宇宙線研究所 乗鞍観測所は、戦後まもなくの1949年に大阪市立大学が独自に設置した観測所に始まる。その後、1950年に朝日学術奨励金で建てられた朝日の小屋と合流・拡充される形で、1953年に日本初の全国共同利用研究機関として東京大学宇宙線観測所へと発展する。その年から数えると今年が60周年記念の年というわけだ。

宇宙線観測の場として乗鞍岳が選ばれた理由は、もちろん空気による減衰を受けにくい高所(約2780m)が選ばれたことは間違い無いが、もう一つ大きな利点があった。それは、戦時中に飛行機エンジン開発のための高所研究施設(陸軍の航空研究所)があり自動車道路が畳平まではすでに整備されていたため、建設・物資運搬のためのインフラ整備を最小で済ませる事が可能だったからだと聞いている。

以下の公式ページを開いても、沿革も何も記載されておらず、乗鞍観測所への愛が感じられないのが寂しい限り。
 →東京大学宇宙線研究所 乗鞍観測所
別窓 | 宇宙と物理ネタ | コメント:18
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この記事のコメント
乗鞍観測所はけっこう建物が多いですね。知りませんでした。

 1980年に乗鞍へ行かれたのですね。私は同じ年の前半は、けっこう田無キャンパスに滞在していました。田無で実はすれ違っていたとかいう可能性ありますかね?
2013-08-23 Fri 18:27 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>乗鞍観測所はけっこう建物が多いですね。

中央の横長の建物は本館で宿舎だったと思います。右手の手前に伸びている建物の先端にエアシャワーのコアを捕らえるシンチレーションカウンターのアレイが入っていたと思います。屋外にバラまかれている白いボックスはエアシャワーの広がりを捕らえるシンチです。アレイ棟の向こう側に見える小さな建物が朝日の小屋だと思います。当時は既に役目を終えて倉庫に使っていたのじゃなかったかな。左手の曲線屋根はなんだったかな。倉庫権動力室だったかな?

>田無で実はすれ違っていたとかいう可能性ありますかね?

1979年は4回生で夏に1回、1980年は5回生で、この年は秋に2回乗鞍へ行きました。写真は1回目で9月後半滞在時のものです。2回目は10月末から11月初めにかけてで、この年は初雪が早く、生まれて初めてスキーをさせてもらいました。この後、明野から田無へ回ったと思います。S.Uさんは1980年11月中旬に核研にいらっしゃいましたか?

今日は、S.Uさんにご説明するのをきっかけに細かな事も思い出せました。当時は今程写真を小まめに撮る時代ではなかったですが、それにしても残っているものが少なくて残念です。あと数枚だけあるのでそれらもそのうちにご披露しましょう。明野、核研は1枚もありませんでした。また、いつでも来れるとその時は感じたのかもしれませんが、いまとなっては遥か遠い場所になってしまいました。
2013-08-23 Fri 20:22 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
よく覚えていらっしゃいますね。
田無の宇宙線研のことはほとんど覚えていません。検出器のための建物は3つくらいしかなかったような...平面チェンバーの積み重なったのは見た覚えがあります(間違っていたら宇宙線研関係者の皆様お許しを)。電子シンクロトロンの実験室と宿舎のことはよく覚えています。

1980年後半のことは忘れてしまいました。私はもう田無から撤収して大学で解析をしていたかもしれません。関東に滞在し始めた頃の話なのに、覚えていないのは情けないことです。

しかたなく、Wikipediaに頼ることにしますと、

>1980年
>11月2日 - 広島がパ・リーグの覇者近鉄を4勝3敗で下し、日本シリーズ2連覇を達成。
>11月4日 - 巨人の王貞治選手が現役引退。通算本塁打数868本は世界最多記録(現在も破られていない)。

広島カープのJ2、王選手の非公式戦最後のホームラン(11月16日だったらしい)は広島でテレビでみたように思う。

>11月19日 - 山口百恵と三浦友和が霊南坂教会で結婚、披露宴は東京プリンスホテル・鳳凰の間。

山口百恵の引退のニュースは核研で見たが、結婚式は記憶になし。

ということでたぶん広島で解析をしていました。
2013-08-23 Fri 20:48 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
S.Uさんと田無ですれ違った可能性は低そうですね。
私は核研では宇宙線研施設との繋がりは全くありませんでした。管理棟の北側の研究棟で電算機を使うだけでしたから。
http://blog-imgs-27-origin.fc2.com/k/a/s/kasuten/0803042.jpg
2013-08-23 Fri 20:58 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>管理棟の北側の研究棟で電算機

 そうですか。私が解析に使った磁気テープ(9トラック2400フィートというやつ)もここでコピーされた物ですので、すれ違っている可能性はゼロではありませんが、テープコピーはD課程の先輩がして大学に送ってくれたので、たぶん私の先輩としかすれ違っていらっしゃらないでしょう。

 田無の宇宙線研の建物は、昭和時代にミュートロンは既にあったと思いますが、ご紹介の平成7年の図面ほど多くはなかったように思います。
2013-08-23 Fri 21:10 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
この図面は数年前に核研跡地へ行った際に撮影したものなので、1980年当時とは違うと思います。乗鞍とは対象的に核研の全体配置はほとんど記憶にありません。
2013-08-23 Fri 21:58 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>核研~1980年当時
 思い出してみましたが、15年の間でも大きな違いはないですね。当時は、放射光と原子核研究用加速器(J-PARCの前身)の開発時代の施設があったと思いますが、建物の名称が変わった程度に思います。

 ところで、かすてんさんは、核研の宿舎に滞在していらっしゃいましたか?
2013-08-24 Sat 07:30 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>かすてんさんは、核研の宿舎に滞在していらっしゃいましたか?

1979年は滞在しましたが、1980年は武蔵野市の自宅から自転車で通いました。ちょっと曖昧なのが、1980年は2回乗鞍へ行って、降りて明野、核研と、回ったのですが、2回ともだったかどちらかだったか、その辺の順番などがはっきりしません。他の家族とのスナップ写真などを見れば少し解明できるかもしれません。
2013-08-24 Sat 08:41 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>武蔵野市
 今は西東京市として隣接していますが、核研は街路的には保谷市ひばりが丘側だったので、自転車では相当遠かったでしょうね。私は、ひばりヶ丘までは基本徒歩でしたが、武蔵境は基本バスでした。

 で、私も1979~82年にしばしば核研の宿舎を利用したのですが、2段ベッドがあってシーツ入れのベッドメーキングが必要で、しかも違うグループの人が相部屋で実験が昼夜兼行のため、出入りが深夜になることもあるというたいそう迷惑なものでした。長期滞在の人は、東久留米に近い側にアパートを借りていた人もあったように思います。
 乗鞍、明野の宿舎はどうでしたか。
2013-08-24 Sat 09:29 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>自転車では相当遠かったでしょうね。

いまググってみたら約4.3kmでした。自転車で20分くらいだったと思います。地元みたいなものなので、裏道を通って、武蔵野の秋を楽しみながら通った様に記憶しています。

>宿舎

核研も乗鞍も明野も相部屋ではなかった様に思います。明野では何をやったかさっぱり覚えていません。乗鞍から核研への移動途中に私の見学を兼ねて寄ってくれたのかもしれません(それ以前に明野も見たいと担当教官に言ったことがあったといま思い出しました)。農家のおじさんが差し入れてくれるトウモロコシやスイカを食べた記憶しか無いんですよ。
2013-08-24 Sat 09:58 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>ググって~武蔵野の秋を楽しみながら
 グーグルの航空写真を見ると、東大の農場は残っていますが、それ以外の当時の田無の緑地や保谷の畑作地は、今は開発されてしまったようですね。

>核研も乗鞍も明野も相部屋ではなかった
 加速器実験は、加速器運転やら実験課題に時期的な波があってそれが宿舎の混み方にも反映します。宇宙線はそういうのがないのかもしれません。
2013-08-24 Sat 13:18 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>加速器実験は、加速器運転やら実験課題に時期的な波があってそれが宿舎の混み方にも反映します。宇宙線はそういうのがないのかもしれません。

加速器実験は一時に全員参加で集中しそうですね。それに対してエアシャワーは自然まかせの上に、核研で実験をするわけでもないですし。市大からは教官と私のふたりだけなので部屋は余裕があったのでしょう。先生は先に大阪へ戻って、私だけしばらく田無へ通って後から戻ったと思います。この年は必須単位が一つも無かったのでお気楽でした。しかし、博物館実習のレポート期限の時に乗鞍にいて単位を取れなかったのがいまとなると惜しかったです(先に出すか、後で拝めばOKだったはずなので先生のせいではありません)。一応学芸員補の免許を貰えるのでね。
2013-08-24 Sat 13:45 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
今から見るとのどかな研究生活のようにも思えますが、当時は当時でそれはそれはたいへんでした。
2013-08-24 Sat 20:28 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>当時は当時でそれはそれはたいへんでした。

S.Uさんの場合はプロの研究者への道が拓けるか否かのシビアな時期だったのでは無いでしょうか。私はそろそろこの道を諦めるための心の準備に入りかけていたと言えます。
2013-08-24 Sat 20:38 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>プロの研究者への道が拓けるか否か
 どうなんでしょうね。当時はそんなことはほとんど考えていなかったように思います。たぶん、就職に関しては今より総じて暢気に構えていたような時代だったと思います。今の研究者の入口の人は、非正規の働き口ばかりが多様に目の前にあって、それで生涯のキャリアパスが見えないのでかえって苦労するでしょう。
 
 修士課程は2年で修論が書けなければ追い出される(すなわち中退させられる)と脅されていて、それが完了するようにするには、実験グループに溶け込んでちゃんと役割を果たすしかない、というのが私のせいいっぱいのところでした。
2013-08-25 Sun 04:35 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>修士課程は2年で修論が書けなければ追い出される(すなわち中退させられる)と脅されていて〜

シビアですね。
私は市大では学部の経験しかないので院生たちの感じていた別の厳しさは知りませんが、当時も研究職への道は狭かったですが採用されるときは正規でした。その後IT産業が育って行くに連れて一般の就職状況は好転しましたね。当時はマスター出が学部出よりも好感を持たれていて、逆にドクターまで行くと就職厳しいよと聞かされていました。
2013-08-25 Sun 08:04 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
>逆にドクターまで行くと就職厳しいよと聞かされていました

 最近、大企業の投資意欲が衰えてきたので、また当時のような時代の状況に戻りつつあります。学歴や経験の有無をどう問うかはさておいて、自分の考えで研究を進められる人を優遇するような日本社会にしてほしいです。
2013-08-25 Sun 18:27 | URL | S.U #MQFp2i1U[ 内容変更]
>自分の考えで研究を進められる人を優遇するような日本社会にしてほしいです。

これについては将来真っ暗ですね。出る杭は打つ、創造の芽は摘む、日本のお家芸ですから、研究者に限らず自分の考えで生きる人は住みにくいです。
2013-08-26 Mon 19:18 | URL | かすてん #MLEHLkZk[ 内容変更]
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