2007年、33年の時間を巻き戻し天文少年ならぬ天文壮年へ再入門。隊員1名。その後の変化でただいま星空は休眠状態。郷土史、草刈り、読書、ドローンの記事が多くなっています。
武士はまず射芸の職能者だった
2021-09-26 Sun 00:00
2109191.jpeg『源平合戦の虚像を剥ぐ』 川合康著 講談社学術文庫
                  2010年 1110円

 源平合戦の時代というのは、全国的に内乱が勃発したために射芸の職能者という武士の理想・本領を備えない戦闘員が大量動員され、武士の品質低下の時期だったらしい。頼朝が弓馬の道、特に馳射(はせゆみ)の芸を奨励したのは、東国の技量をアピールするためではなく、衰退を食い止めるための復古的な政策だったということだ。
 本書を読むきっかけは射芸ではなく『平家物語』に登場する「城郭」の実態を確認することだった。城・城郭というとちょっと前までは天守閣のことだと思われていたが、近年の城郭ブームのおかげで土塁や堀で区画された防御施設という認識がかなり一般にも認知されるようになった。しかし、そこまで分かっていても、本書が解明する『平家物語』に登場する城郭の姿は相当奇異に感じられることと思う。どの様なものかというと、道を塞ぐ様に堀を掘って、掻楯(かいだて)を並べて、逆茂木(さかもぎ)を並べる、これこそが「城郭」だという。郭と聞いて頭に浮かぶ取り囲まれた形状のものではなかったらしい。実は、霞ヶ浦南岸の稲敷台地上には、街道を塞ぐ堀と土塁が随所に構築されていた。多くは戦後隠滅したが、いくつかはまだ旧状を止めている。掻楯の代わりに恒久的な土塁にしている違いはあっても、この堀切・土塁で防御するという戦法はどの時代のものなのだろうか。源平合戦時代以降の主な支配者を並べて、志田氏か、小田氏か、鎌倉北条氏か、山内上杉氏か、土岐原(土岐)氏か、小田原北条氏か、蘆名氏かと考えてみる。で、この中の誰かが『平家物語』から学んでいたのだろうか。
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