
『霞ヶ浦の貝塚と社会』 阿部芳郎編 雄山閣 2018年 3000円
25年ほど前に霞ヶ浦の沿岸に住むことになり、県南の地形を利用した中世の城郭跡に興味を持って歩いてきた。地形ということであれば、霞ヶ浦周辺は我が国有数の貝塚分布地帯でもある。それなのに、縄文時代については時代区分も分類の編年も知らず、土器を見ても時期の区別もつかない。資料展示を見たり解説を読んだその瞬間は、ああそうなのかとは思うのだが、記憶としてちっとも定着しない。記憶力が衰えてきていることは確かだが、それにしてもザルで水を掬うかの如き見事な忘れ方なのだ。現在骨折療養中の身の上で、読書のための時間が割とあるので、普段読まない本とか読めずに後回しになっていた本をいくつか読んでいる。本書については、存在は知っていたが読むには至っていなかった。分担執筆者15人中、県南地域の資料館関係者を含めて半分以上が存じ上げるお名前なので、親近感をモチベーションにこの機会に縄文の知識を定着させたいと思う。
予想通り読み切れなかったが、印象に残ったのは1879年から2014年までの「霞ヶ浦沿岸貝塚の発掘調査事例」の表(関口満・亀井翼「霞ヶ浦の貝塚研究史」)だった。日本考古学の嚆矢となった飯島魁と佐々木忠次郎による陸平貝塚(美浦村)の発見と調査以来「学術」を目的として行われてきた発掘調査だが、1967年の宮後遺跡(石岡市)そして1972年の虚空蔵貝塚(美浦村)を境に、その目的は「学術」から「記録保存」へと大きく方向を変えた。「記録保存」と言えば聞こえはいいが、要は開発などにより破壊が予定されているので急いで記録だけでも取っておいたということだ。1972年以降の貝塚遺跡115件の発掘調査の内の7割が「記録保存」され間も無く破壊されたことになる。1972年といえば、田中角栄の「日本列島改造論」が政策綱領として発表された年で、茨城県南もリアルタイムにその時代に飲み込まれていたことが分かる。