2007年、33年の時間を巻き戻し天文少年ならぬ天文壮年へ再入門。隊員1名。その後の変化でただいま星空は休眠状態。郷土史、草刈り、読書、ドローンの記事が多くなっています。
あの雲の下で生まれた赤子
2012-04-10 Tue 00:00
1203212.jpg・映画1957年制作:世界は恐怖する 死の灰の正体

 この映画が作られた終戦から十数年後という時代は、広島・長崎の記憶も生々しく、米ソ冷戦下での原水爆実験による日本の放射能汚染の実態について、まだまだ真っ正面から描ける時代だったということが分かる。1時間20分と少し長いが、日本人が放射能の危険性について、そのスタートラインではどのように認識していたのかを知ることが出来る貴重な映画だと思う。
 私が生まれた1956年当時、すでに30Bq/kgのセシウム137入り粉ミルクが出回っていたことが描かれていて印象に残った。確か私は母乳で育ったと聞いているので粉ミルクからの被曝は無かったとしても、母を通して母乳その他の食料品そして大気などから内部被曝していたことは間違いない。この映画では放射能汚染の社会問題については語られていないが、ナレーションは遺伝的影響にしきい値無しの立場を取っている。
 1956年に行われた核実験を調べてみると、米国によるレッドウィング作戦が5月4日を皮切りに7月21日までの間にビキニ環礁及びエニウェトク環礁でなんと17回行われていた。特に7月20日には米国が行った核実験で最もダーティといわれる実験名テワ (Tewa)も行われている。私が生まれる一月ほど前のことだ。出産直前に母は酷い下痢をしてしまい、そのことが私の身体とその後の成長に何らかの悪影響を及ぼしたのではないかと気にして後年私に詫びた事があった。当時の衛生状況からすれば下痢の原因などいくらでも考えられるが、この映画を見た後ではそこに放射能の影響を付け加えることもまんざら荒唐無稽とは思えなくなった。
 ここまで生きて来るのに大きな支障はなかったとは言え、自分も確率的影響のくじ引きの、特等ではないにしろ、末等くらいに当たっているとしても不思議は無い。そう考えると、私も核実験の時代にあのキノコ雲の下で生まれた赤子の一人だったということを実感を持って感じる。
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