33年の時間を巻き戻し天文少年ならぬ天文壮年へ再入門。隊員1名、200mm、65mmの望遠鏡と双眼鏡で星空を楽しんでいます!
それは書かれることの無い永遠の青春物語
2023-05-29 Mon 00:00
この前、学生時代の家賃領収証が出てきたのをきっかけに、アパートや最寄駅やその街で知り合った人たちのことを久しぶりに思い出した。

かなり前に思いついたのだが、ある日、天から我が身に小説を書く能力が奇跡の様に降臨したときに書かれるオムニバス小説『鶴が丘の快人たち』のこと。大阪天王寺駅からJR阪和線に乗って三つ目の駅、鶴が丘。この界隈に出没する大胆不敵、いや、大胆素敵で、魅力溢れる愛すべき快人たちとの出会いとどんちゃん騒ぎと別れの青春物語。

1976年春、この駅に「僕」が降り立った時、この物語は始まる。

主な登場人物:
月光苑のおっちゃんとおばちゃん
天つるのマスターとおばちゃん
沼田さん 仏文院生から大学教授へ
奥野さん 小説家志望の怪しげな塾講師
ナベさん 髭のダイコー産業社長
和田さん ダイコー産業で働く山男
アルフィーのマスター 女とノミ競馬で店を失う
有福一家とHighway Star
エドミのママ
鶴が丘温泉の美人姉妹
牧野酒店 駅前の立ち飲み屋
小川写真店
名前忘れた貸本屋
小林歯科
森恒夫の下宿
夜の庚申街道を直走る
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6畳一間の広々とした空間
2023-05-20 Sat 00:00
2305181.jpg机の引き出しからこんなものが出てきた。1976年4月から1981年3月までの学生時代のアパート家賃領収証5年分。6畳一間で流しと押入れ付きで1ヶ月9千円。浪人時代からTVは不要になっていたので、机代わりの電気炬燵と本棚の他には何にも無い部屋から一人暮らしは始まった気がする。物はなくてもそこは自由な空間だった。
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らくらくは誰が楽々なんだ!?
2019-08-31 Sat 00:00
1908281.jpgこの前、大阪王将のことを書きながら、大学のある阪和線杉本町駅西口(当時東口はなかった)にあったひらがなの「らくらくうどん」といううどん屋のことを思い出していた。2年前にクラブの先輩と久々に行ったいわし亭(→2017-07-06)の並びにあったかに記憶している(もしかしたらもう一本西側の道沿いだったかも)。現在は丸亀製麺が全国展開した後なので讃岐うどんのセルフ店もさほど珍しくなくないが、思い出すに、この店では麺を湯がくところからやらせられたので、いわゆる完全セルフとカテゴライズされる店だったわけだ。今から40年も前なので当然初体験で、大阪でも讃岐うどん自体がまだ珍しかったので、具を取ると結構高くついたがときどき食べに行っていた。楽々なのは客ではなく店員の方だろうという人を小馬鹿にしたネーミングだが、杉本町界隈に今はない様だ。現在、他所に同じネーミングの店は何軒か見つかるが、由緒が繋がっているのか、何の関係もないのかわからない。
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大阪王将と出会ったころ
2019-08-20 Tue 00:00
NEWSつくばのコラムで大阪王将が紹介されていたのを見て、王将の餃子と出会ったときの事を思い出した。
 →《ご飯は世界を救う》14 街の食堂・庶民の味方「大阪王将」

1908152.png「大阪王将」は名前の通り大阪の店なのだが、「王将」のもともとは京都が発祥の地で、二つに分かれて「餃子の王将(いわゆる京都王将)」と「大阪王将」になった。私が大阪の大学に行ったのは大阪王将の鶴橋店ができた頃だったかと思う。部活が終わった後の夕飯に、同期と連れ立って大阪環状線の鶴橋駅や大正駅の店によく行った。もともと小食の自分は、初めて行った時には2皿が限度だったが、次第に店で3皿食べて2皿持ち帰りというパターンに落ち着いた。1976年当時、一皿6個で100円あるいは120円だったかと思う。ビールの好きな連中だったが、王将の餃子を食べる時だけは誰一人ビールは飲まなかった。炭酸で腹が膨れて餃子を思う存分食べられないのがわかっていたからだ。連れ立って行くのは大阪王将ばかりだったのは、京都王将は王将の餃子らしくないという王将マニアのもりもっちゃんの評論を聞かされていたからだ。一度試しに京都王将にも行ってみたが、確かに普通の中華料理店の餃子とあまり違いがなかった記憶がある。大阪王将の餃子の魅力の一つはニンニクがたっぷり入っている点だが、食べて帰った夜中に自分の吐く息の臭さで目を覚ましたことが幾たびもある。母親の作る餃子は豚肉とニラが多くてニラ団子包みのような餃子だった。それしか知らずそんなものかと思っていたので、王将の餃子との出会いは新鮮だった。まず、皮が厚い、ニラが入っていない、豚肉は入っているけど団子になるほどではない、キャベツがしっかり入っている、そしてニンニクたっぷりというのが素材の基本。そして、ペースト状になるまで捏ねられた生地を、細いヘラ一本を巧みに使ってものすごい速さで手際よく包むという厨房作業をカウンター越しに見るのも飽きなかった。後年、東京や茨城でも大阪王将の店に入ったことはあるが、なんだか上品さが加わってしまって、大阪で食べるときの様な満足感は得られなかった。一緒に行ったきったない格好の部活帰りの同期も、買って帰った古アパートの部屋も、今はもうないのだからそれは仕方がない事だが、、、。
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夏爐のレモンライスとジルバ
2019-04-14 Sun 00:00
1904061.jpg2017年の7月3日に大阪市大のある杉本町周辺を歩いたことを少し書いた(2017-07-06)。そこには書かなかったが、理学部北東側の住宅街も少し歩いてみた。学生の頃、クラブの先輩や友達とよく行った夏爐という喫茶店があったのだが、すっかり様子が変わっていて、場所を見つけることができなかった(後で長崎堂住吉店の場所と分かる)。夏爐は、普通の住宅街の中の普通の住宅で、すらりと背の高い旦那さんとどちらかというと小柄な奥さんご夫婦が経営していた。人気はレモンライス、というか、価格が高め設定なので、学生が注文できるのは唯一レモンライスだったからだと思う。そのため、レモンライス以外のメニューの記憶がまったくない。
1904151.jpg2007年にお店を閉められたらしいが、市大の生協が同じレシピを引き継いてメニューにしていると聞く、それも学長の肝いりで。なぜ、夏爐のレモンライスを思い出したかというと、渋谷のレモンライスが大人気で、それを取材した番組の中で市大も取材されていたという話が同期から伝わってきたからだ。そうそう、学祭のダンパでお二人が素敵なジルバを踊られていたこともついでに思い出した。
[写真は下のリンクFal-Shelf:レモンライスブームからお借りした。そうそう、黒い陶器の皿だった。]

 →路上的旅人今月のイチオシVOL.2
 →ROSE GROVE NOTE:夏爐というお店について
 →第1回夏爐臨時決起集会報告(2007/03/09)
 →Fal-Shelf:レモンライスブーム

クックパッドに夏爐直伝のレシピがあるので、お試しあれ。
 →レモンライス (夏爐・大阪市立大学):クックパッド
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奥井潔先生1976年春の最終講
2018-07-17 Tue 00:00
1805052.png以前、予備校時代の日本史の金本正之先生について書いた中に、英文学の奥井潔先生のお名前も短く紹介したことがあった。そこにも書いた様に講義の録音テープが手元に残っていたので、1976年春の最終講義のそのまた最後の部分の録音を文字起こししてみた。52歳頃の若々しく落ち着いた肉声だ。聞き取れない部分は●にしてあるが、文字にした部分にも聞き間違いがかなりあると思われる。当時でも文系理系では状況はかなり違っていたが、さらにその後の40年間の社会状況の変化は大きく、現在ではなかなか受け入れてもらえない部分もあると思われる。ご興味あれば下のリンクからお読みいただきたい。
[写真は『週刊金曜日2012.2.24(884号)』より]
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ポーランド文字を手軽に使えるようになるまで
2017-10-08 Sun 00:00
1710071.jpgズビグニエフへ初めて手紙を書いたのが1982年6月7日。そのころは航空便でも片道半月からひと月くらいはかかっていたので、手紙を受け取ってすぐに返事を書いて出しても2ヶ月に一回くらいののんびりしたペースのやり取りだった。最初は英語で書いていたが、3年後の1985年5月19日に初めて全文手書きのポーランド語で書いた。その次の7月6日便では、アルファベットテキストにポーランド特殊文字の記号だけを手書き追加してみた。1710072.jpgさらに9月21日便では早くも自作ポーランド語ワープロもどきで打ち出した手紙を送ってみた。当時、NECのPC-8201を使っていて、特殊文字を自作して外字登録のようにして出力したのだったかと思う。本邦初のポーランド文字を出力できるワープロだったのかもしれないが、文章を打ちながら頻繁に外字を入れるのはとても面倒で、やはり特殊記号のみ手で追加するのが一番楽な方法だった。その後、ワープロ専用機でも外字登録を試みたがやはり使いにくいのは同じで、特殊記号追加でやる方法が長く続いた。1997年8月24日以降は電子メールでやり取りするようになったのだが、初めて届いたメールはものすごい文字化けだった。ネイティヴならば特殊記号が入っていなくてもわかるようなので、普通のアルファベットでやり取りする時期がその後ずっと続いていた。ポーランド文字を普通に表示できるようになったのはいつのころからだったのか。少なくとも30年間は試行錯誤していたことになる。
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泡沫社員が言えた義理ではないが
2017-09-06 Wed 00:00
当時写植機業界に君臨していた写研だが、DTPへの流れに背を向け、文字の解放も拒否して独自仕様路線を貫いたために、時代のスピードから取り残された形になってしまった、というのが大方の見方だろう。ちょっと信じられないことだが、いまだに会社の公式ウェブサイトも無い。この時代にこれでは、外部とのコミュニケーションを拒んでいるとしか考えられない。多くの人が現在は何を売っている会社なのだろうかと疑問を持つだろうが、ホームページを持たないのはそういうことを聞かれたくない、知られたくないという意思表示とも見える。写研ホームページが他社の書体で表示されるなどプライドが許さないのではないかといった、なかなかシュールで穿った評を書いている方もいる。

いまや写研フォントかそうでないかなどにこだわる時代ではなくなった。自分も、前回今回の本作りの中で、フォントへの注文は一切せず、編集者にお任せした。先日編集者に尋ねてみたが、現在は組版上ほとんど書体としては使わなくなっていますという回答だった。時代は変わったってことだ。
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泡沫社員が置いてきたほぼ唯一のもの
2017-08-07 Mon 00:00
1707292.jpg1983年、写研入社直後の休日に、武蔵野の自宅から職場近くの成増まで、自転車を漕いで旧川越街道沿いの桶屋さんまで木の手桶を買いに行ったことを当時の日報に書いた。それを読んでたいそう面白がってくれたN部長から、社内報に何か書きなさいと言われ、「武蔵野・野火止・平林寺」と題した短い紀行文を書かせてもらった。そのことをFさんにお伝えすると、早速過去の資料の中から見つけ出してコピーを送って下さった。こりゃ懐かしい!文章は私の著作物だから公開しても問題無いと思うが、文中に歌の歌詞を多用しているので今時はJASRACから使用料でも請求されたらばからしいので非公開にしておく。当時はそんなことを心配して萎縮する者などいなかった良い時代だった。同期の顔もかなり思い出してきた。みなさんどうしていることやら。ただ、そうした懐かしく楽しい思い出ばかりではなく、自己都合退社の私が途中で放り投げてしまった仕事をフォローする羽目になったチームの先輩、後輩への申し訳なさも同時に思い出すことになって胸がちくちくしている。
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泡沫社員が31年後に読み返す写研技術史
2017-07-31 Mon 00:00
1707291.jpg写研とか写植に関する話題をこれまでに4回書いたことがある。そして、ついに写研の方に見つけてもらった。それも私が在職したわずか数年の期間で重なる先輩から。ただ、部署と建物が違っていたため、お互いに記憶には残っていなかった。昨年、執筆者のお一人として写研の写植機技術の歴史をまとめた本を出版されたということで、さっそく購入した。

技術者たちの挑戦 写真植字機技術史
          布施茂編 創英社/三省堂書店 2200円 2016年

布施氏は当時開発本部長だったかと記憶する。同期の顔が写っている写真も所々に載っている。そして、自分が関わった機種も1ページを使って紹介されている。
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卒業祝いにいただいた紙包み
2017-06-29 Thu 00:00
1706032.jpg書類の片付けをしていたら、またまた面白い物が出てきた。紙に包まれているのでこれだけではわからないかもしれないが、DSPCORと書かれたこの紙がストックフォーム(スプロケットで紙送りするタイプの連続紙)だと気づけば答えに近づけるかもしれない。
何十年かぶりに包みを開けてみたら止めていた輪ゴムが劣化してカラカラになっていた。これはFORTRANのサブルーチンパッケージ121行分が打ち込まれたパンチカード。

1706033.jpgこのサブルーチンを使うと、三次元空間の点の集合をラインプリンターに出力することができる。乗鞍のシンチレーションアレイで測定された宇宙線の空気シャワー1イベント毎のデータからコアの三次元的な分布イメージを出力するために作られたもので、プリンターにグラフィカルな出力機能のなかった当時のこと、文字出力のみを使ってイメージを描画するサブルーチンだった。これを作ったのは私の担当教官(大阪市大)の共同研究者で当時甲南大学研究生だったNさん。富士通を退職して宇宙線の研究へ戻って来た方だった。コンピュータを触り始めたばかりの学生の自分は、プログラミングによって思いもかけないことができることに驚いた。そして、Nさんは私の卒業祝いに、自由に使っていいよとこのサブルーチンパッケージを下さった。
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人生の決断に力を貸してくれた1冊の本
2017-06-15 Thu 00:00
1706031.jpg書類の片付けをしていると懐かしい物が出てきてつい手が止まってしまう。これは写研時代に書いた社内論文と、参考文献に使った当時(どうやら現在でも)ソフトマンのバイブルだった『ソフトウェア作法』。

カーニハン&プローガー『ソフトウェア作法』
       木村泉訳 共立出版 3800円 1981年

論文の方は名ばかりで「ソフトウェア開発上の問題点」と題したレポート。メンバー内で目標が共有されていないプロジェクトではソフトウェア開発基盤がいかに脆弱にならざるを得ないかを示し、改善への提案を書いてみた。などと言うともっともらしいが、自分の力不足を棚に上げて上司の企画力を批判しているだけとも言える。その時すでに辞職するつもりだったので、所属するプロジェクトの長への批判を思いっきり書いてしまった。

『ソフトウェア作法』は、ここにいても将来性のある正統派の開発環境は望めそうにないと、早々と見切りをつけさせてくれた、今にして思うと人生の決断に力を貸してくれた本だったことになる。
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『だれも知らない小さな国』の佐藤さとる氏が亡くなった
2017-02-19 Sun 00:00
『だれも知らない小さな国』の佐藤さとる氏が亡くなったそうだ。1928年生まれで享年88歳。

 →佐藤さとる 公式WEB

1702172.jpg昭和52年(1977)の講談社文庫本を持っている。ヨメさんと付き合い始めた頃に教えてもらって買ったもの。挿絵に色をつけたくなって、18枚全て塗り絵をした。

その中の数枚。
1702173.jpg1702174.jpg1702175.jpg
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金本正之先生との出会い(その3) 記憶に残る講義
2016-11-08 Tue 00:00
金本正之先生との出会い(その1) 接点年表
金本正之先生との出会い(その2) 資料みたいなもの数点

手元に残る資料を頼りに思い出せることは(その1)と(その2)にほぼすべて書いてしまった。あとは自分の記憶の中だけに残る幾つかのエピソードを可能な限り絞り出しておきたいと思う。

(1)発明された「天皇」:遣隋使を送るにあたり皇帝へ貢物をする周辺諸国の王の一人としてではなく、隋の皇帝と対等かそれ以上の位を示せる名称は何か、聖徳太子はここでハタとひらめいた。中国の皇帝は天から付与される権威と権力。「天」と「皇帝」をくっつけて「天皇」とすれば皇帝よりも上位。これを知った隋の皇帝、アッと驚いたがもう遅い。

(2)古代日本人の精神:『隠された十字架』を題材に、怨霊と鎮魂は日本人の心、文化、政治のいたるところに関わってきたことを例示する。

(3)茶漬けで負けた平将門:田原藤太(藤原)秀郷が将門に付かなかった理由は、茶漬けの湯を3回継ぎ足したことだとか。秀郷は将門の人物を探りに面会に行くが、茶漬けの湯を3回継ぎ足したのを見て、茶漬け一杯の湯の量も把握できない大将には将来性はないと見限ったということだ。その他秀郷の百足退治のエピソード。

(4)源平の戦い方:当時の戦は夜明け後から日没前の間に行っていた。騎馬での戦いでは、敵が自分の右側にいる場合はいくら近くにいても仕掛けられなかった。一ノ谷の戦いの段では『青葉の笛』を聞かせてくれる。

(5)源為朝のエピソード:十人張りの弓使いで左腕が右腕よりも30cm以上長かったという源為朝。かつて弓道をされていた金本先生の説明によると、和弓では矢を射る瞬間に左手首のスナップを強く効かせるため、強い弓を弾く為朝の左腕は30cm以上も長くなってしまったということらしい。

(6)鎌倉幕府の成立と中世武士社会の様相:『曽我兄弟の敵討ち』

(7)文永・弘安の役:『元寇』を歌ってくれた、、、はず。

(8)鎌倉幕府の滅亡:『鎌倉』を聞かせてくれる。

(9)南北朝の戦い:船坂山 杉坂 院庄 と隙間を空けて黒板に書き始めた。隠岐へ護送される後醍醐天皇を追ってきた児島高徳だが船坂山、杉坂では追いつけずようやく院庄で追いつくことができた。一人では如何ともし難いので、闇に紛れて後醍醐の寝ている庭へ入り桜の木に十字の漢詩「天莫空勾践、時非無范蠡」と刻む。朝起きてきた後醍醐がそれに気付き、漢詩の内容を理解し、時を得たならば必ず忠臣が助け出しに来てくれることを悟ったというエピソードが語られる。語り終えたところで 『児島高徳』を聞かせてくれる。

(10)前期日本人と後期日本人:日本人の精神構造が中世のある時期に大転換したという話。それは前期日本人/後期日本人と区別できるほどの大変化だったらしい。多くは忘れてしまったが、いま覚えているのは「善悪」、「怨霊や祟りへの畏れ」などの規範の違い。鎌倉時代頃までは前期日本人、信長や家康は後期日本人。これが行動の違いに現れているのではないだろうか。この話を聞いてからもうかれこれ30年経っているが時々思い出して歴史上の人物の行動を見るときのヒントにすることがある。
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金本正之先生との出会い(その2) 資料みたいなもの数点
2016-10-10 Mon 00:00
金本正之先生との出会い(その1) 接点年表 の続きを書いておこう。

(1)1960年
1609252.jpgこの2枚の写真は、1960年6月15日の安保反対デモの最中に国会内で警官隊による暴行で死亡した樺美智子さんの遺稿集『人しれず微笑まん』の口絵写真のもの。

『人しれず微笑まん』 樺光子編 三一書房 1960年 250円

1609251.jpg当時樺さんが学生として所属していた東大文学部国史学研究室に、金本正之先生は大学院生として所属していた。安保反対声明文の中に、お二人の署名を見つけることができる(上の写真)。1609271.pngまた、合同慰霊祭での集合写真では遺影のすぐ隣に写っているのが金本先生(左の写真)。私が出会う15年前である。出典不明だが合同慰霊祭の写真がもう一枚あった(右写真)。

(2)1975年
1609255.jpg金本正之「『茨城県史料=中世編』I・IIの存在を楽しむ -一利用者のひとり言- 」(『茨城県史研究 33』(1975年))

私がS予備学校で金本先生に出会った時、先生は茨城大学の教官をされていた。講義の中でその時代に関連する展示会が水戸の茨城県立歴史館で開かれていますよというお話を伺いさっそく見に行った。県立歴史館を訪れたそれが最初になる。その報告と感想をお話しするのをきっかけに講師控え室を訪ねて初めて先生と直にお話ししたのを覚えている。
1609253.jpg右の写真は歴史館が発行する『茨城県史料 中世編 I』とそれに関する金本先生の寄稿文が掲載されている『茨城県史研究 33』だ。左にその出だしの部分をコピーしておく。ここに出てくる『臼田文書』は県南中世史を解明するための最重要文書群の一つで、『茨城県史料 中世編 I』はいまの私にはなくてはならない史料集となっている。私が先生とお会いしていたちょうどその時期に書かれた寄稿文と史料集を、それから30年後に机の上で開くことになるとは、実に不思議な巡り合わせを感じる。そして、先生がお元気であったらお聞きしたいことが山のようにあったのだが。

(3)1975年
1609211.jpg先にご紹介した通り古いカセット箱の中には、予備校での金本先生の最終講義の録音も残っていた。

金本先生の講義は予備校が作っているテキストなどまったく使わず、とにかくその時代を理解するための重要事象について、大きな歴史の流れを縦糸に、有名な物語を横糸にして時代そのものを織り上げて見せてくれる、そういう進め方だった。一番印象に残っているのが『曽我兄弟の敵討ち』を題材にして、鎌倉幕府の成立と中世武士社会の様相を提示してくれた講義だ。大阪市大の入試にまさにその時代が出て、その問題についてはおそらく一番面白い解答を書いた一人だっただろうと自負している。その時に必ず登場していたはずの八田知家(現在の茨城県南を治めた小田氏の祖)については記憶に残っていないのが残念だ。
このような進め方の講義のため当然入試時期が近づいてきても、近・現代まで到達しない。そこでまる一日使って近現代史の長時間補講を行うことが恒例となっていた。この日だけは教務も検札を行わず、多くの学生が詰めかけ廊下まで立ち見で溢れかえり大教室は大変な熱気に包まれた。カセットテープに残っていたのは数時間に及んだ補講の中で披露されたたくさんの歌だった。曲名は以下。
 インターナショナルの歌
 船頭小唄
 籠の鳥
 東京行進曲
 昔恋しい早稲田の自由(東京行進曲の替え歌)→音声
 酒は涙か溜息か
 爆弾三勇士の歌(与謝野鉄幹/辻順治・大沼哲)
 肉弾三勇士の歌(中野力/山田耕筰)
 天国に結ぶ恋
 青年日本の歌
 駿台生希望の歌(嗚呼玉杯に花うけての替え歌)
 駿台第2校歌(=嗚呼玉杯に花受けて)
現代のように撮影、録音、録画が簡単にできる時代ではなかったので残念ながら音は聞きづらいが、これはこれで貴重な記録だろうと思っている。

(4)1988年
1609254.jpg武蔵野市成人学校『日本中世史入門』配布資料

1988年9月〜11月、武蔵野市成人学校『日本中世史入門』10回シリーズは、自宅からも近い武蔵境駅近くの市民会館を会場に開講された。市民向け講座の講師として招かれた金本先生に13年ぶりに再会できたわけだが、地域のおじさんおばさんの前で講義する先生からはS予備学校のカリスマ講師の熱気は感じられなかった。逆に言うとそれは若人へ向けて放っていた金本先生のオーラがいかに凄まじかったかの証でもあったと思う。
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金本正之先生との出会い(その1) 接点年表
2016-09-26 Mon 00:00
金本正之先生は日本中世史の研究者・教育者なので、中世城郭に興味を持つ今の自分であれば講演会や博物館講座などで話を聞く機会があっても不思議はないが、初めてお会いしたのはそれよりもはるかに早く、41年前の予備校での日本史の講義だった。国公立理系志望で日本史を選択する者はごくごく少数派で、社会科はたいてい地理か倫社か政経を選択してお茶をに濁すといったパターンだったはずだ。それでも自分が日本史を選択したのは、興味の持てない科目よりは好きな科目をやる方が精神的に楽だと考えたから。この正攻法(あるいは無謀)のおかげで金本先生に出会えたのだから何が幸いするかわからない。予備校後も含めて先生との接点はわずかなのだが、この人と出会えたおかげで自分の人生はどれだけ豊かなものになったかと感じられる、そんな人生の恩師の一人に間違いはない。

金本先生との接点年表:
(1)1975年春〜76年冬、御茶ノ水のS予備校。日本史の講義をニセ学生として聴講。
  初めて直接お話をしたのは講師控室。
(2)1976年2月、名物の8時間(だったかな?)補講。
  真冬だというのに東校舎・大教室は立ち見も多く熱気むんむんだった。
  この日ばかりは教務の検札もなく見て見ぬ振りをしてくれたようだ。
(3)1988年9月〜11月、武蔵境駅近く(自宅近く)の市民会館で武蔵野市成人学校。
  「日本中世史入門」10回聴講。S予備校時代の思い出をお話しする。
(4)1990年頃の春、東洋大学退官記念講義。
  ありがたいことに成人学校聴講者にもお知らせが来たので参上してご挨拶。

1609211.jpg先日見つけたカセット箱の中には、予備校での金本先生の最終講義の録音も残っていた。ついでにおなじラベルに名前の見える、奥井潔先生の英文学・文化論も聞き応え満点だった。大学へ行くとこういう講義に接することが出来るのかと憧れを抱かせてくれる内容だった。

その2ではこの録音を含め、手元に残る金本先生関連の資料について紹介しようと思う。
 →金本正之先生との出会い(その2) 資料みたいなもの数点
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カセット箱の中はお宝の山
2016-09-20 Tue 00:00
1609182.jpg捨ててはいないはずと思っていたが、やはり残っていた。玉手箱のように蓋を恐る恐る開けると、タモリの『タモリ(1977)』『タモリ2(1978)』『タモリ3 戦後日本歌謡史(1981)』やオールナイトニッポンの音声、スネークマンショーの『SNAKEMAN SHOW/スネークマン・ショー(1981)』『死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!(1981)』『スネークマンショー海賊盤(1982)』や水牛楽団の『ポーランド 禁じられた歌』などのカセットテープが出てきた。さて、40年前のテープもあるがちゃんと再生できるのだろうか。
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昭和はますます遠くなりにけり
2016-07-22 Fri 00:00
永六輔が亡くなったので、これを読みながら弔いをしようと思う。

1607151.jpg『みだらまんだら』 永六輔著 え・山下勇三
            文藝春秋 1972年 540円

この本を最初に読んだのは高校の時。嶋田くんが貸してくれた。帰宅してから読む様にと念を押されたのに我慢しきれず帰りの井の頭線で読んでしまい、おかしさに笑いを堪えきれずに往生したことを思い出す。箸がこけても笑えるハイティーンの頃だったとは言え、今となっては常識的な内容に思えて抱腹絶倒できなくなってしまった精神の老化が恨めしい。この本はその後も何度か手放しては買い、また手放しては買いと、数回購入した。

『狂気の沙汰も金次第』 筒井康隆著 新潮文庫 1976年 280円

こちらは大学生の時、現在は長居競技場キンチョウスタジアムになってしまった菜の花畑の中の菊水園(荘?)というアパートにいた有本くんが貸してくれた。本文の面白さはもちろんだが、山藤章二のイラストがとにかく秀逸。ちなみに、長居公園には筒井康隆の父嘉隆氏が初代館長を務めた大阪市立自然史博物館がある。

永六輔も、野坂昭如も、小沢昭一も、井上ひさしも、そうそう大橋巨泉も亡くなり、昭和を体現していたお人方の姿がいよいよ少なくなって寂しい限り。筒井康隆、もうちょっと頑張ってくれろ。
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文字をデザインする
2016-06-21 Tue 00:00
NHKのプロフェッショナル仕事の流儀「異端の文字、街にあふれる 書体デザイナー・藤田重信」という番組を見た。

1606211.jpg書体にデザイナーがいるといってもピンとこない人は多いかもしれない。反対にポスターやチラシに使われている文字に個性があることに気づいている人もいるだろう。最近は、MacやPCで書体を選ぶときに「ヒラギノ明朝」とか「筑紫A丸ゴシック」とかを指定しながら書体デザイナーに思いを馳せる人も、、、そんな奇特な人いないか。[写真はNHKの番組紹介ページより]
 →フォントって大切だよ♪:6月13日(月)のNHK『プロフェッショナル』は、筑紫書体で有名なフォントワークス藤田重信さん

藤田氏は私よりも一つ若いが写研入社は1975年なので8年先輩になる。開発部と文字部は建物は別だし、ペーペーが仕事で文字部と関わることもなく、スーボをデザインしたスター的存在の鈴木勉氏を除いては、藤田氏についても、後に鈴木氏と字游工房を設立してヒラギノを作ることになる鳥海修氏についても知る機会はなかった。
 →『鈴木勉の本 抜粋版』
   49歳で亡くなった鈴木勉氏を追悼する内容の本

この番組は藤田氏の孤軍奮闘を描いた内容だったが、自分にとっては30数年前を思い出すきっかけの番組になった。いまだに公式ホームページを持たない株式会社写研、石井裕子社長はこの会社をお墓まで持っていくつもりなのだろうか。
 →フォントって大切だよ♪:いわゆる公式サイト(ホームページ)のない写研。会社として忘れ去られるまえに、情報の開放を――。
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ミルクを送る
2015-12-12 Sat 00:00
かなり前になるが、2012年4月14日の記事に、「子供たちにミルクを! 」というコメントに目が止まったことを書いた。そのときに出し忘れて、今年の夏に33年ぶりに影山さんに会った時にも出しそこなって、、、今夜、当時の資料が出てきたのを機会にアップしておく。

1980年当時、私は大阪での学生生活の最後の時期を過ごしていた。8月、ヨーロッパではポーランド北部のグダインスク造船所で自主管理労働組合「連帯」によるストライキが国民的な支持を得て、東欧の春の様相を呈していた。しかし、東西をソヴィエト連邦とベルリンの壁に挟まれた中での「連帯」によるポーランドの舵取りは困難に突き当たり、ソヴィエトの介入も時間の問題かと思われた矢先の1981年12月13日、ヤルゼルスキ将軍による軍事クーデターが起こり全土が戒厳令下に置かれることになった。1512111.jpgその直後の12月20日、大阪市内でポーランド映画の上映会が行われるというので見に行くことにした。後にプラネット映画資料図書館代表となる安井喜雄さんが上映会場を提供し、シネマテーク・ジャポネーズ同人の影山理さんが上映映画を提供し、フリージャーナリストの今井一さんがポーランド取材報告を行うというプログラムだった。最後にポーランドの市民を援助する活動が出来ないだろうかと言う提案があり、映画会の終わった会場に15名ほどの有志が残りその中に私もいた。それが後日「ポーランドへミルクを送る会」として発足することになる市民ボランティア組織結成の夜だった。

「どうか日本の子供たちに「安全なミルク」を供給拡散してください。」このような日が来ようとは、あの時の誰が想像しただろうか。
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『ANO・ANO』を覚えていますか
2015-01-23 Fri 00:00
1501023.jpg2015年のNHK大河ドラマは吉田松陰の妹を主人公にした『花燃ゆ』。原作はなく脚本を大島里見と宮村優子が担当するということだ。テレビドラマをほとんど見ないので知らなかったが、Wikiを見てみると宮村優子は脚本家としてけっこう売れっ子のようだ。しかし、物書きとしてのデビュー作ともいうべきあの本が挙がっていないのはなぜだろう。歴史の1ページとしてWikiにも載っていないこの1冊、いや2冊、を紹介しておこうと思う。

Wikiにも載っていないと書いたが、ネット上にある『ANO・ANO』情報としては、連載時の編集担当だった『月刊宝島』編集部の村松恒平氏のページくらいしか見つからない。「女子大生の本音」ということで一時は社会現象にまでなり映画化もされた『ANO・ANO』だが、今では覚えている人も少ないだろう。そうそう、『ANO・ANO』著者・宮村裕子は宮村優子の本名で、高校の2年下の学年ということを知ったのは卒業した後のことだ。

映画『ANO・ANO 女子大生の基礎知識』

『ANO・ANO』は女子学生の本音、特に性に関することを開けっぴろげに語ったという点で画期となった一冊だった。1980年発行だが『月刊宝島』に連載されたのはそれよりも1年ほど早い時期だろう。今ではなんでもないような内容を「開けっぴろげに」とは言いながらも相当「肩肘張って、むきになって」語っていたことが伺えて面白い。

『ANO・ANO』は性に関わる本音話の他にコラムもある。例えば、「放課後の帰り道がよく一緒になった。詩や小説やレコードの話かなんかをしながら、キャベツ畑に囲まれた田舎道のような駅への道を二人で歩いた。帰り道の思い出で印象的だったのは、駅のホームでの話。高校のある井の頭線の駅のホームはひとつしかなくて、私は吉祥寺方向への、その人は渋谷方向への電車を待っていた。」のところを読んで、井の頭線浜田山駅と通学路を懐かしむのは自分に近い世代の同窓生と確信した。
それから、『ANO・ANO II』の中では、初めて古典を習った斎藤先生の思い出を語るコラム『S先生の伊勢物語』は感動的だ。先生の風貌や「梓弓ま弓槻弓年を経て」の段を講義する風景などが眼に浮かぶ。また、同窓会で再会した初恋の彼も斎藤先生が好きだったと知って「私は、この人を好きだったということを、S先生が好きだったことと同じくらい誰かに誇りたい気がした」という下りは共感できる。私がその斎藤先生に習ったのは現国だったが、特に映画公開1年前の『デルス・ウザーラ』を題材に、文明とはについて熱く語ってくれた講義は実に迫力があったなぁ。
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大阪から音楽がやってきた
2014-12-26 Fri 00:00
1412241.jpg大阪市大時代の知り合いからオリジナルCD、DVDがたくさん届いた。38年ほど前、私は理学部学生でN田さんは文学部の院生で、歳は十ほども離れていたが、国鉄阪和線・鶴ヶ丘駅前の「天つる」の常連で、いっしょにお酒を飲むことが多かった。そのN田さんが大学教官の職を得たときは、これまでみたいに遊んでもらえなくなるという寂しさが心をよぎったものだが、あれから早36年、無事に定年を迎えられた。これからはたまに大阪へ戻るときでも、また昔のように遊んでもらえそうだ。

N田さんは軽音出身でCountry & WesternやBluegrass志向だったので、手近にギターがあると、有名な曲を聴かせてくれたり蘊蓄を語ってくれたりした。ある時、私たちが結婚すると報告した時もいっしょに飲んでいたのだが、お祝いにと「誰か故郷を思わざる」を歌ってくれた。ちょっと意外な選曲だったが、その時のことはいまでも忘れられない。

1412242.jpgそのN田さんのバンドはThe Green Mountain Tops。ライブハウスや地域の催しなどで活躍している様子が以下のブログから伝わってくる。おじさんバンド、ますます盛んだ。
 
The Green Mountain Tops

早速、全74曲iTunesに入れて車の中で聞いている。
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より遠きへ 金星へ
2014-12-14 Sun 00:00
1412141.jpg■和田城志についてもう一回書こう。『劔沢幻視行 山恋いの記』本文中にもあったが、『登山における困難とはなにか』(登山研修所友の会VOL.9文献「高所登山の実践と課題」)にもこう書いてある。「アルピニズムの呪文「より高く、より困難をめざして」(私はより遠くも含めたい)」と。「行きたいところは金星」と若かった自分やヨメさんに話してくれたのは出任せのからかいではなくこういう伏線があったのかと、35年も経ってから謎が解けた。[写真は金星探査機マゼランのデータからシミュレートされた金星の地形。こんな風景を想像していたのだろうか。]

実は前回『劔沢幻視行 山恋いの記』を紹介した同じ日、玉青さんも「世界の果てへ」という記事を書かれていた。以下はそのコメント欄からだが、玉青さんは「金星へ」についての最良の説明文を書いてくれたと感じる。「アルピニストの心に燃えるものは何なんでしょうね。 自分の能力を山を相手に試したいという、真っ当なチャレンジ精神もあるでしょうし、他人がまだ目にしたことのない光景を見たいという好奇心や、人間臭い功名心もあるのでしょうが、それらとはまたちょっと違ったところに、記事で書いたような「ひたぶるに遠くを目指す心」もあるのかなあ…という気がします。 この「遠くを目指す心」が、上で挙げたそれ以外の心理と異なるのは、「こちらの世界に戻って来れなくてもいい」と思ってしまうことで、純粋であると同時に、非常に危うさをはらんでいます。」

■『劔沢幻視行 山恋いの記』のところどころに挿入されている炊爨道具や草花の自筆スケッチに添えられているおっぱい型の「Wada」サイン。懐かしいと感じたのは、ダイコー産業に届いていた絵葉書の署名が思い出されたからだ。ブロード・ピークでポーランド人のWandaにあげた山のスケッチのサインもこのおっぱいだったんだ。その彼女もカンチェンジュンガのアタックで行方不明になってしまったという。

■65歳になった和田さんは異次元から戻って同次元の人となり、いまは下界を歩いているようだ。「道路はあるが道がなくなった」、道無き道を歩き続けてきた登山家にとって下界は実に住みにくいところなのだろうと思う。

知名度は低いが峻険!7000m峰
ランタン・リルンはこんな山。初登頂記録を残した山ではあっても和田さんにとって恋する山ではないようだ。しかし、私にとっては、チョモランマ-マナスル-ランタン・リルンとヒマラヤで3番目に有名なピークとなる。

■因みに、11月22日の記事に書いた「ナニワの将棋少年」和田柔大くんのおじいさんというのはこの和田さんのことだ。
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「ランタン・リルン」 忘れ得ぬ山の名
2014-12-06 Sat 00:00
1411211.jpg『劔沢幻視行 山恋いの記』 和田城志著
          東京新聞 1700円 2014年

登山に縁は無いが「星戀」ならぬ「山恋の記」を読んだ。著者の和田城志さんと会ったのは35、6年前に遡る。

「天候が回復せず、シェルパの祈りが朝からずっと続いています」と書かれた絵葉書がダイコー産業に届いていた。阪和線鶴ヶ丘駅界隈には馴染みの居酒屋『天つる』や当時和田さんが勤めていたダイコー産業があって、何度かお酒をご一緒させてもらった。それは和田さんが30歳の頃で、大阪市大隊として未踏峰ランタン・リルン初登頂の少し後のことだ。私の記憶の中の和田さんは、本書63頁の大学2回生(21歳頃か)の写真の面影に近いロングヘアの青年のままだ。

当時インド方面のトレッキングもしていたらしいが、話の中でどういう脈絡だったのか、その頃始まったNASAのヴィーナス計画を話題にし、「行きたいところは金星」と真面目な顔で言っていた。若かった自分やヨメさんをからかったのだろうが。

第5章の出だしにこんなことが書かれている。「この世の縁は不思議ではない。自分で無意識のうちにそれを選択しているように思う。(中略)南国土佐、物理、黒部、雪、冬、私はこういう縁を選びたがっているように見える。」そういうことだとすれば、和田さんと私は無意識のうちに「物理」というキーワードで、極小さくはあるがひとときの縁を結んでいたことになるかもしれない。

わずか数度の機会とはいえ、自分の人生とはまったく別次元を生きる名ある登山家と時空を共にし杯を交わせることの幸せを、学生だった当時の自分に分かろうはずも無かった。
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異次元仮想体験 雪山へ
2014-12-03 Wed 00:00
この十日ほど、雪山登山の本を読んでいた。冬劔、雪黒部、劔沢大滝、ヒマラヤ高峰、ランタン・リルンやナンガ・パルバットといった、生まれ変わったとしても自分が行くことはないだろう別次元の世界を垣間見せてもらった。この本『劔沢幻視行』についてはもう少し書きたいと思う。

1411291.jpg
[写真は大阪市立大学山岳会ホームページ「ランタンリルン登山報告」より]

今夜の観測:RX Lep6.0等。
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ユリちゃんと天体観測所
2014-11-18 Tue 00:00
大学の同窓会報が届いた。1月に逝去された恩師への追悼記事が載っていた。当時助教授だったその先生のことを私たち学生は最愛の情(?)を込めて「ユリちゃん」と呼んでいた。お名前の百合夫の愛称だ。ユリちゃんの講義はユニークだった。講義に使う図は全て模造紙に手描きされた美しいカラー図であった。何十年同じ模造紙を使って来たのだろう、至る所に破れを補修した跡がある。現在のようなプロジェクター時代だったらどうしただろうか、いやいや考えるまでもない、ユリちゃんのことだから相変わらず模造紙を使い続けたはずだ。

1410291.jpgユリちゃんの退官が目前に迫っていたため、光栄にも私たちは講義を聴けた最後の学年になった。私は1年間の講義の板書、実習材料リスト、試験問題などを『ユリちゃんの○○学総論 最終講義』と題して、手縫い製本して今も保存してある。久しぶりにぱらぱらと読み返して、学生を困らせるときのユリちゃんのイジワルな、それでいて分かる者には分かるユーモア溢れる口調が蘇って来て笑ってしまった。

追悼文の中に、定年近くになって自家用車が高く売れたので駐車スペースに天体観測所を作ったとか、構内で拾って来た塩ビ管で望遠鏡を作ったり、張りぼての天球儀も作っていたなどといったエピソードが書かれていた。当時の自分は天文空白時代だったとは言え、ユリちゃんと星の話をする機会がなかったことは大いに悔やまれる。

「私が100知っている。みなさんは1か2知っている。しかし、chaosの前にはどちらも同じことです。」ユリちゃんは謙虚なお言葉で最終講義を終えられた。ご冥福をお祈りする。
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遊郭の雰囲気を体験できる街
2012-12-14 Fri 00:00
・戦前の和風建築巡ろう 18日、旧遊郭街を見学 大阪
121212.jpg 大阪の旧遊郭街、飛田新地に残る歴史的建物の見学会が開かれるらしい。

 この記事にある百番という店は、私が大阪市立大の学生だった頃にはすでに庶民的な料亭になっていて、超高エネルギー研究室のコンパで何度か行ったことがある。建物の中には遊郭時代の調度品などが残っていて、ちょっと他では味わえない雰囲気が漂う空間だ。飛田地区の百番以外の店は当時も風俗営業をしていたので、大門から入り中の通りを歩いていると両側の店の暖簾の向こうからやり手ばばに呼びかけられたりもした。健全な心持ちでこういう場へ踏み込める希有な場所だったと思う。
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30年前の大阪からとんぼ返り
2011-02-07 Mon 00:00
110205.jpg土曜日の夜、大阪西天満で大学時代のクラブの集まりがあった。当時の監督(みな師匠と呼んでいる)の傘寿のお祝いを兼ねての集まりという事だが、師匠は30年前とほとんどお変わりなかった。先輩たちもあまり変わっていなかったが、むしろ後輩らの方が変化幅が大きく感じた。同期は半々というところ。
朝練や部室での泊まり当番、部の維持費捻出のために強制的に行かされたバイト、お尻から血の出る夏合宿、雑草の生える季節には夕方になるとドンゴロスいっぱいの草刈り、試合となれば下級生は使役へ駆り出された。それでも先輩にはほんとうにかわいがってもらった感が強い。その後の人生で、転職のあげくそのときの経験が巡り巡って今の仕事になってしまったのだから、わずか1年しか在籍しなかったとはいえなんと濃密な時間であった事かと思う。そんな生活をしていたため、高校まで好きだった星のことはすっかり忘れてしまった。
思い出話は尽きなかったが、日曜日午前中の仕事に間に合うように夜行バス「よかっぺ号」で朝帰り。
[写真:中之島から淀屋橋を見る]

今夜は久しぶりにまとまった雨が降っている。
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『復活!TK-80』
2010-07-13 Tue 00:00
大学の大型計算機センターへ行って、カードパンチャーが空くのを待ち、自分がプログラムしたコーディング用紙を見ながらパンチカードへ入力し、オペレーター氏にカードストックを預けて帰る。昼飯を食べ終わったころセンターへ行ってみると結果が出力されている。ひぇ~!今回もバグのため出力紙数枚を無駄にしただけで成果無し。もう一度プログラミングからやり直しだ。少ない機材とマシンパワーをみんなでタイムシェアリングしていた時代、わずかに割り当てられたマシンタイムはとても貴重だったし、そもそも計算機を利用する研究室にでも所属していなければ個人が計算機と接する機会など全くなかった時代だった。三十数年前のことだ。

1007122.jpgそんなときに目の前に現れたのがNECのマイクロコンピュータ・トレーニングキットTK-80だった。幸いこの時期はアルバイトで資金に余裕があったので、さっそく飛びついた。1977年だった。ちなみにApple][が発売されたのも同年。宇宙開発だけでなくここでも日米の技術の時間的ギャップを感じざるを得ない。ワンボードのTK-80に大型計算機の代わりができるはずは無いのだが、誰に気兼ねすること無くすべてのマシンタイムを自由に使える自分のコンピュータを手に入れた満足感は格別で、新しい時代の到来を実感する瞬間でもあった。

100712.jpgそうは言ってもTK-80は簡単に使いこなせる代物ではなかった。しかし、添付されていたマニュアルは、自力で学ぼうという意欲のある者には、かなり分かりやすい内容だったと今から振り返ってそう感じる。さらに、当時出版された『マイコンゲーム21』(岸田孝一著 産報出版 1978年)も実に分かりやすく、TK-80やマシン語との距離をぐんと縮めてくれた。

2000年に出た『復活!TK-80』というTK-80シミュレータ付属の本を懐かしく読んだ。今更マシン語でもないが、TK-80に久しぶりに触れられるのは楽しみだ。「プログラムのコーディングよりも、この基板ビットマップ作成のほうがはるかに時間がかかっている。TK-80を知る世代の友人も、シミュレータそのものより、このビットマップに感激してくれているのが嬉しい。」と著者は書いているが、Macベースで作成していたら真に美しい仕上がりになったはずで、その点がちょっと残念な気がした。

 →『復活!TK-80』 榊正憲著 アスキー出版局 2480円 2000年
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ウゴウゴルーガを覚えていますか?
2010-07-04 Sun 00:00
1005103.jpgこの前エルニーニョの海水温図をシュールくんの顔の様と書いたのがトリガーになって、あの番組をまた見たくなってしまった。

『ウゴウゴルーガ』、覚えていますか。1992年10月から1994年3月まで放送されたフジテレビの朝の子供番組で、CGをふんだんに使った実験的試みの番組(だったように思う)。子供番組とはいいながら、当時9歳前後だったウゴウゴくん、ルーガちゃんとスタッフが演じるテレビくんやシュールくん、トマトちゃんなどの様々なキャラとの言葉による掛け合い、そしてその絶妙な間は、子供よりもむしろ大人に受けたのではないかと思っている。

照れ屋のウゴウゴくんは地味なキャラではあったが、それがインディペンデントなルーガちゃんの魅力を大いに引き出していたことに今改めて気づかされる。

バブル崩壊直後の、社会の気分はまだ右肩上がりの時代を映している番組だったのかもしれない。
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