2023-05-29 Mon 00:00
この前、学生時代の家賃領収証が出てきたのをきっかけに、アパートや最寄駅やその街で知り合った人たちのことを久しぶりに思い出した。
かなり前に思いついたのだが、ある日、天から我が身に小説を書く能力が奇跡の様に降臨したときに書かれるオムニバス小説『鶴が丘の快人たち』のこと。大阪天王寺駅からJR阪和線に乗って三つ目の駅、鶴が丘。この界隈に出没する大胆不敵、いや、大胆素敵で、魅力溢れる愛すべき快人たちとの出会いとどんちゃん騒ぎと別れの青春物語。 1976年春、この駅に「僕」が降り立った時、この物語は始まる。 主な登場人物: 月光苑のおっちゃんとおばちゃん 天つるのマスターとおばちゃん 沼田さん 仏文院生から大学教授へ 奥野さん 小説家志望の怪しげな塾講師 ナベさん 髭のダイコー産業社長 和田さん ダイコー産業で働く山男 アルフィーのマスター 女とノミ競馬で店を失う 有福一家とHighway Star エドミのママ 鶴が丘温泉の美人姉妹 牧野酒店 駅前の立ち飲み屋 小川写真店 名前忘れた貸本屋 小林歯科 森恒夫の下宿 夜の庚申街道を直走る |
2023-05-20 Sat 00:00
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2019-08-31 Sat 00:00
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2019-08-20 Tue 00:00
NEWSつくばのコラムで大阪王将が紹介されていたのを見て、王将の餃子と出会ったときの事を思い出した。
→《ご飯は世界を救う》14 街の食堂・庶民の味方「大阪王将」 ![]() |
2019-04-14 Sun 00:00
![]() ![]() [写真は下のリンクFal-Shelf:レモンライスブームからお借りした。そうそう、黒い陶器の皿だった。] →路上的旅人今月のイチオシVOL.2 →ROSE GROVE NOTE:夏爐というお店について →第1回夏爐臨時決起集会報告(2007/03/09) →Fal-Shelf:レモンライスブーム クックパッドに夏爐直伝のレシピがあるので、お試しあれ。 →レモンライス (夏爐・大阪市立大学):クックパッド |
2018-07-17 Tue 00:00
![]() [写真は『週刊金曜日2012.2.24(884号)』より] |
2017-10-08 Sun 00:00
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2017-09-06 Wed 00:00
当時写植機業界に君臨していた写研だが、DTPへの流れに背を向け、文字の解放も拒否して独自仕様路線を貫いたために、時代のスピードから取り残された形になってしまった、というのが大方の見方だろう。ちょっと信じられないことだが、いまだに会社の公式ウェブサイトも無い。この時代にこれでは、外部とのコミュニケーションを拒んでいるとしか考えられない。多くの人が現在は何を売っている会社なのだろうかと疑問を持つだろうが、ホームページを持たないのはそういうことを聞かれたくない、知られたくないという意思表示とも見える。写研ホームページが他社の書体で表示されるなどプライドが許さないのではないかといった、なかなかシュールで穿った評を書いている方もいる。
いまや写研フォントかそうでないかなどにこだわる時代ではなくなった。自分も、前回今回の本作りの中で、フォントへの注文は一切せず、編集者にお任せした。先日編集者に尋ねてみたが、現在は組版上ほとんど書体としては使わなくなっていますという回答だった。時代は変わったってことだ。 |
2017-07-31 Mon 00:00
![]() 技術者たちの挑戦 写真植字機技術史 布施茂編 創英社/三省堂書店 2200円 2016年 布施氏は当時開発本部長だったかと記憶する。同期の顔が写っている写真も所々に載っている。そして、自分が関わった機種も1ページを使って紹介されている。 |
2017-02-19 Sun 00:00
『だれも知らない小さな国』の佐藤さとる氏が亡くなったそうだ。1928年生まれで享年88歳。
→佐藤さとる 公式WEB ![]() その中の数枚。 ![]() ![]() ![]() |
2016-11-08 Tue 00:00
金本正之先生との出会い(その1) 接点年表
金本正之先生との出会い(その2) 資料みたいなもの数点 手元に残る資料を頼りに思い出せることは(その1)と(その2)にほぼすべて書いてしまった。あとは自分の記憶の中だけに残る幾つかのエピソードを可能な限り絞り出しておきたいと思う。 (1)発明された「天皇」:遣隋使を送るにあたり皇帝へ貢物をする周辺諸国の王の一人としてではなく、隋の皇帝と対等かそれ以上の位を示せる名称は何か、聖徳太子はここでハタとひらめいた。中国の皇帝は天から付与される権威と権力。「天」と「皇帝」をくっつけて「天皇」とすれば皇帝よりも上位。これを知った隋の皇帝、アッと驚いたがもう遅い。 (2)古代日本人の精神:『隠された十字架』を題材に、怨霊と鎮魂は日本人の心、文化、政治のいたるところに関わってきたことを例示する。 (3)茶漬けで負けた平将門:田原藤太(藤原)秀郷が将門に付かなかった理由は、茶漬けの湯を3回継ぎ足したことだとか。秀郷は将門の人物を探りに面会に行くが、茶漬けの湯を3回継ぎ足したのを見て、茶漬け一杯の湯の量も把握できない大将には将来性はないと見限ったということだ。その他秀郷の百足退治のエピソード。 (4)源平の戦い方:当時の戦は夜明け後から日没前の間に行っていた。騎馬での戦いでは、敵が自分の右側にいる場合はいくら近くにいても仕掛けられなかった。一ノ谷の戦いの段では『青葉の笛』を聞かせてくれる。 (5)源為朝のエピソード:十人張りの弓使いで左腕が右腕よりも30cm以上長かったという源為朝。かつて弓道をされていた金本先生の説明によると、和弓では矢を射る瞬間に左手首のスナップを強く効かせるため、強い弓を弾く為朝の左腕は30cm以上も長くなってしまったということらしい。 (6)鎌倉幕府の成立と中世武士社会の様相:『曽我兄弟の敵討ち』 (7)文永・弘安の役:『元寇』を歌ってくれた、、、はず。 (8)鎌倉幕府の滅亡:『鎌倉』を聞かせてくれる。 (9)南北朝の戦い:船坂山 杉坂 院庄 と隙間を空けて黒板に書き始めた。隠岐へ護送される後醍醐天皇を追ってきた児島高徳だが船坂山、杉坂では追いつけずようやく院庄で追いつくことができた。一人では如何ともし難いので、闇に紛れて後醍醐の寝ている庭へ入り桜の木に十字の漢詩「天莫空勾践、時非無范蠡」と刻む。朝起きてきた後醍醐がそれに気付き、漢詩の内容を理解し、時を得たならば必ず忠臣が助け出しに来てくれることを悟ったというエピソードが語られる。語り終えたところで 『児島高徳』を聞かせてくれる。 (10)前期日本人と後期日本人:日本人の精神構造が中世のある時期に大転換したという話。それは前期日本人/後期日本人と区別できるほどの大変化だったらしい。多くは忘れてしまったが、いま覚えているのは「善悪」、「怨霊や祟りへの畏れ」などの規範の違い。鎌倉時代頃までは前期日本人、信長や家康は後期日本人。これが行動の違いに現れているのではないだろうか。この話を聞いてからもうかれこれ30年経っているが時々思い出して歴史上の人物の行動を見るときのヒントにすることがある。 |
2016-10-10 Mon 00:00
金本正之先生との出会い(その1) 接点年表 の続きを書いておこう。
(1)1960年 ![]() 『人しれず微笑まん』 樺光子編 三一書房 1960年 250円 ![]() ![]() (2)1975年 ![]() 私がS予備学校で金本先生に出会った時、先生は茨城大学の教官をされていた。講義の中でその時代に関連する展示会が水戸の茨城県立歴史館で開かれていますよというお話を伺いさっそく見に行った。県立歴史館を訪れたそれが最初になる。その報告と感想をお話しするのをきっかけに講師控え室を訪ねて初めて先生と直にお話ししたのを覚えている。 ![]() (3)1975年 ![]() 金本先生の講義は予備校が作っているテキストなどまったく使わず、とにかくその時代を理解するための重要事象について、大きな歴史の流れを縦糸に、有名な物語を横糸にして時代そのものを織り上げて見せてくれる、そういう進め方だった。一番印象に残っているのが『曽我兄弟の敵討ち』を題材にして、鎌倉幕府の成立と中世武士社会の様相を提示してくれた講義だ。大阪市大の入試にまさにその時代が出て、その問題についてはおそらく一番面白い解答を書いた一人だっただろうと自負している。その時に必ず登場していたはずの八田知家(現在の茨城県南を治めた小田氏の祖)については記憶に残っていないのが残念だ。 このような進め方の講義のため当然入試時期が近づいてきても、近・現代まで到達しない。そこでまる一日使って近現代史の長時間補講を行うことが恒例となっていた。この日だけは教務も検札を行わず、多くの学生が詰めかけ廊下まで立ち見で溢れかえり大教室は大変な熱気に包まれた。カセットテープに残っていたのは数時間に及んだ補講の中で披露されたたくさんの歌だった。曲名は以下。 インターナショナルの歌 船頭小唄 籠の鳥 東京行進曲 昔恋しい早稲田の自由(東京行進曲の替え歌)→音声 酒は涙か溜息か 爆弾三勇士の歌(与謝野鉄幹/辻順治・大沼哲) 肉弾三勇士の歌(中野力/山田耕筰) 天国に結ぶ恋 青年日本の歌 駿台生希望の歌(嗚呼玉杯に花うけての替え歌) 駿台第2校歌(=嗚呼玉杯に花受けて) 現代のように撮影、録音、録画が簡単にできる時代ではなかったので残念ながら音は聞きづらいが、これはこれで貴重な記録だろうと思っている。 (4)1988年 ![]() 1988年9月〜11月、武蔵野市成人学校『日本中世史入門』10回シリーズは、自宅からも近い武蔵境駅近くの市民会館を会場に開講された。市民向け講座の講師として招かれた金本先生に13年ぶりに再会できたわけだが、地域のおじさんおばさんの前で講義する先生からはS予備学校のカリスマ講師の熱気は感じられなかった。逆に言うとそれは若人へ向けて放っていた金本先生のオーラがいかに凄まじかったかの証でもあったと思う。 |
2016-09-26 Mon 00:00
金本正之先生は日本中世史の研究者・教育者なので、中世城郭に興味を持つ今の自分であれば講演会や博物館講座などで話を聞く機会があっても不思議はないが、初めてお会いしたのはそれよりもはるかに早く、41年前の予備校での日本史の講義だった。国公立理系志望で日本史を選択する者はごくごく少数派で、社会科はたいてい地理か倫社か政経を選択してお茶をに濁すといったパターンだったはずだ。それでも自分が日本史を選択したのは、興味の持てない科目よりは好きな科目をやる方が精神的に楽だと考えたから。この正攻法(あるいは無謀)のおかげで金本先生に出会えたのだから何が幸いするかわからない。予備校後も含めて先生との接点はわずかなのだが、この人と出会えたおかげで自分の人生はどれだけ豊かなものになったかと感じられる、そんな人生の恩師の一人に間違いはない。
金本先生との接点年表: (1)1975年春〜76年冬、御茶ノ水のS予備校。日本史の講義をニセ学生として聴講。 初めて直接お話をしたのは講師控室。 (2)1976年2月、名物の8時間(だったかな?)補講。 真冬だというのに東校舎・大教室は立ち見も多く熱気むんむんだった。 この日ばかりは教務の検札もなく見て見ぬ振りをしてくれたようだ。 (3)1988年9月〜11月、武蔵境駅近く(自宅近く)の市民会館で武蔵野市成人学校。 「日本中世史入門」10回聴講。S予備校時代の思い出をお話しする。 (4)1990年頃の春、東洋大学退官記念講義。 ありがたいことに成人学校聴講者にもお知らせが来たので参上してご挨拶。 ![]() その2ではこの録音を含め、手元に残る金本先生関連の資料について紹介しようと思う。 →金本正之先生との出会い(その2) 資料みたいなもの数点 |
2016-06-21 Tue 00:00
NHKのプロフェッショナル仕事の流儀「異端の文字、街にあふれる 書体デザイナー・藤田重信」という番組を見た。
![]() →フォントって大切だよ♪:6月13日(月)のNHK『プロフェッショナル』は、筑紫書体で有名なフォントワークス藤田重信さん 藤田氏は私よりも一つ若いが写研入社は1975年なので8年先輩になる。開発部と文字部は建物は別だし、ペーペーが仕事で文字部と関わることもなく、スーボをデザインしたスター的存在の鈴木勉氏を除いては、藤田氏についても、後に鈴木氏と字游工房を設立してヒラギノを作ることになる鳥海修氏についても知る機会はなかった。 →『鈴木勉の本 抜粋版』 49歳で亡くなった鈴木勉氏を追悼する内容の本 この番組は藤田氏の孤軍奮闘を描いた内容だったが、自分にとっては30数年前を思い出すきっかけの番組になった。いまだに公式ホームページを持たない株式会社写研、石井裕子社長はこの会社をお墓まで持っていくつもりなのだろうか。 →フォントって大切だよ♪:いわゆる公式サイト(ホームページ)のない写研。会社として忘れ去られるまえに、情報の開放を――。 |
2015-12-12 Sat 00:00
かなり前になるが、2012年4月14日の記事に、「子供たちにミルクを! 」というコメントに目が止まったことを書いた。そのときに出し忘れて、今年の夏に33年ぶりに影山さんに会った時にも出しそこなって、、、今夜、当時の資料が出てきたのを機会にアップしておく。
1980年当時、私は大阪での学生生活の最後の時期を過ごしていた。8月、ヨーロッパではポーランド北部のグダインスク造船所で自主管理労働組合「連帯」によるストライキが国民的な支持を得て、東欧の春の様相を呈していた。しかし、東西をソヴィエト連邦とベルリンの壁に挟まれた中での「連帯」によるポーランドの舵取りは困難に突き当たり、ソヴィエトの介入も時間の問題かと思われた矢先の1981年12月13日、ヤルゼルスキ将軍による軍事クーデターが起こり全土が戒厳令下に置かれることになった。 ![]() 「どうか日本の子供たちに「安全なミルク」を供給拡散してください。」このような日が来ようとは、あの時の誰が想像しただろうか。 |
2015-01-23 Fri 00:00
![]() Wikiにも載っていないと書いたが、ネット上にある『ANO・ANO』情報としては、連載時の編集担当だった『月刊宝島』編集部の村松恒平氏のページくらいしか見つからない。「女子大生の本音」ということで一時は社会現象にまでなり映画化もされた『ANO・ANO』だが、今では覚えている人も少ないだろう。そうそう、『ANO・ANO』著者・宮村裕子は宮村優子の本名で、高校の2年下の学年ということを知ったのは卒業した後のことだ。 →映画『ANO・ANO 女子大生の基礎知識』 『ANO・ANO』は女子学生の本音、特に性に関することを開けっぴろげに語ったという点で画期となった一冊だった。1980年発行だが『月刊宝島』に連載されたのはそれよりも1年ほど早い時期だろう。今ではなんでもないような内容を「開けっぴろげに」とは言いながらも相当「肩肘張って、むきになって」語っていたことが伺えて面白い。 『ANO・ANO』は性に関わる本音話の他にコラムもある。例えば、「放課後の帰り道がよく一緒になった。詩や小説やレコードの話かなんかをしながら、キャベツ畑に囲まれた田舎道のような駅への道を二人で歩いた。帰り道の思い出で印象的だったのは、駅のホームでの話。高校のある井の頭線の駅のホームはひとつしかなくて、私は吉祥寺方向への、その人は渋谷方向への電車を待っていた。」のところを読んで、井の頭線浜田山駅と通学路を懐かしむのは自分に近い世代の同窓生と確信した。 それから、『ANO・ANO II』の中では、初めて古典を習った斎藤先生の思い出を語るコラム『S先生の伊勢物語』は感動的だ。先生の風貌や「梓弓ま弓槻弓年を経て」の段を講義する風景などが眼に浮かぶ。また、同窓会で再会した初恋の彼も斎藤先生が好きだったと知って「私は、この人を好きだったということを、S先生が好きだったことと同じくらい誰かに誇りたい気がした」という下りは共感できる。私がその斎藤先生に習ったのは現国だったが、特に映画公開1年前の『デルス・ウザーラ』を題材に、文明とはについて熱く語ってくれた講義は実に迫力があったなぁ。 |
2014-12-26 Fri 00:00
![]() N田さんは軽音出身でCountry & WesternやBluegrass志向だったので、手近にギターがあると、有名な曲を聴かせてくれたり蘊蓄を語ってくれたりした。ある時、私たちが結婚すると報告した時もいっしょに飲んでいたのだが、お祝いにと「誰か故郷を思わざる」を歌ってくれた。ちょっと意外な選曲だったが、その時のことはいまでも忘れられない。 ![]() →The Green Mountain Tops 早速、全74曲iTunesに入れて車の中で聞いている。 |
2014-12-14 Sun 00:00
![]() 実は前回『劔沢幻視行 山恋いの記』を紹介した同じ日、玉青さんも「世界の果てへ」という記事を書かれていた。以下はそのコメント欄からだが、玉青さんは「金星へ」についての最良の説明文を書いてくれたと感じる。「アルピニストの心に燃えるものは何なんでしょうね。 自分の能力を山を相手に試したいという、真っ当なチャレンジ精神もあるでしょうし、他人がまだ目にしたことのない光景を見たいという好奇心や、人間臭い功名心もあるのでしょうが、それらとはまたちょっと違ったところに、記事で書いたような「ひたぶるに遠くを目指す心」もあるのかなあ…という気がします。 この「遠くを目指す心」が、上で挙げたそれ以外の心理と異なるのは、「こちらの世界に戻って来れなくてもいい」と思ってしまうことで、純粋であると同時に、非常に危うさをはらんでいます。」 ■『劔沢幻視行 山恋いの記』のところどころに挿入されている炊爨道具や草花の自筆スケッチに添えられているおっぱい型の「Wada」サイン。懐かしいと感じたのは、ダイコー産業に届いていた絵葉書の署名が思い出されたからだ。ブロード・ピークでポーランド人のWandaにあげた山のスケッチのサインもこのおっぱいだったんだ。その彼女もカンチェンジュンガのアタックで行方不明になってしまったという。 ■65歳になった和田さんは異次元から戻って同次元の人となり、いまは下界を歩いているようだ。「道路はあるが道がなくなった」、道無き道を歩き続けてきた登山家にとって下界は実に住みにくいところなのだろうと思う。 ■知名度は低いが峻険!7000m峰 ランタン・リルンはこんな山。初登頂記録を残した山ではあっても和田さんにとって恋する山ではないようだ。しかし、私にとっては、チョモランマ-マナスル-ランタン・リルンとヒマラヤで3番目に有名なピークとなる。 ■因みに、11月22日の記事に書いた「ナニワの将棋少年」和田柔大くんのおじいさんというのはこの和田さんのことだ。 |
2014-12-03 Wed 00:00
この十日ほど、雪山登山の本を読んでいた。冬劔、雪黒部、劔沢大滝、ヒマラヤ高峰、ランタン・リルンやナンガ・パルバットといった、生まれ変わったとしても自分が行くことはないだろう別次元の世界を垣間見せてもらった。この本『劔沢幻視行』についてはもう少し書きたいと思う。
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2012-12-14 Fri 00:00
・戦前の和風建築巡ろう 18日、旧遊郭街を見学 大阪
![]() この記事にある百番という店は、私が大阪市立大の学生だった頃にはすでに庶民的な料亭になっていて、超高エネルギー研究室のコンパで何度か行ったことがある。建物の中には遊郭時代の調度品などが残っていて、ちょっと他では味わえない雰囲気が漂う空間だ。飛田地区の百番以外の店は当時も風俗営業をしていたので、大門から入り中の通りを歩いていると両側の店の暖簾の向こうからやり手ばばに呼びかけられたりもした。健全な心持ちでこういう場へ踏み込める希有な場所だったと思う。 |
2010-07-13 Tue 00:00
大学の大型計算機センターへ行って、カードパンチャーが空くのを待ち、自分がプログラムしたコーディング用紙を見ながらパンチカードへ入力し、オペレーター氏にカードストックを預けて帰る。昼飯を食べ終わったころセンターへ行ってみると結果が出力されている。ひぇ~!今回もバグのため出力紙数枚を無駄にしただけで成果無し。もう一度プログラミングからやり直しだ。少ない機材とマシンパワーをみんなでタイムシェアリングしていた時代、わずかに割り当てられたマシンタイムはとても貴重だったし、そもそも計算機を利用する研究室にでも所属していなければ個人が計算機と接する機会など全くなかった時代だった。三十数年前のことだ。
![]() ![]() 2000年に出た『復活!TK-80』というTK-80シミュレータ付属の本を懐かしく読んだ。今更マシン語でもないが、TK-80に久しぶりに触れられるのは楽しみだ。「プログラムのコーディングよりも、この基板ビットマップ作成のほうがはるかに時間がかかっている。TK-80を知る世代の友人も、シミュレータそのものより、このビットマップに感激してくれているのが嬉しい。」と著者は書いているが、Macベースで作成していたら真に美しい仕上がりになったはずで、その点がちょっと残念な気がした。 →『復活!TK-80』 榊正憲著 アスキー出版局 2480円 2000年 |
2010-07-04 Sun 00:00
![]() 『ウゴウゴルーガ』、覚えていますか。1992年10月から1994年3月まで放送されたフジテレビの朝の子供番組で、CGをふんだんに使った実験的試みの番組(だったように思う)。子供番組とはいいながら、当時9歳前後だったウゴウゴくん、ルーガちゃんとスタッフが演じるテレビくんやシュールくん、トマトちゃんなどの様々なキャラとの言葉による掛け合い、そしてその絶妙な間は、子供よりもむしろ大人に受けたのではないかと思っている。 照れ屋のウゴウゴくんは地味なキャラではあったが、それがインディペンデントなルーガちゃんの魅力を大いに引き出していたことに今改めて気づかされる。 バブル崩壊直後の、社会の気分はまだ右肩上がりの時代を映している番組だったのかもしれない。 |
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