2022-08-20 Sat 00:00
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2020-05-18 Mon 00:24
この前、木津川計のインタビューを聞いていた時、全号赤字だった『上方芸能』を200号まで出し続ける力になったのは、小野十三郎の「軽く翼を水平に泳がせて重たい荷物を運ぼう」という言葉に励まされたことだったと語っていた。
小野十三郎というと、小学校だったか中学校だったかの国語の教科書の巻頭詩で名前を記憶している。それが、なんと言う詩だったのか、何年生の教科書だったか、他の学年の巻頭詩は誰の何だったか、まったく記憶にないのだが、どういうわけだか小野十三郎の名前だけが鮮明に記憶されている。それはどんな詩だったのか気になったので探してみた。 で見つかった。「山にのぼると 海は天まであがってくる。」で始まる『山頂から』だ。言葉の力だけでこの広〜い視界を得たときの高揚感が十代前半の自分の記憶の底にそれからずっと残ったのだ。 山頂から 小野十三郎 山にのぼると 海は天まであがってくる。 なだれおちるような若葉みどりのなか。 下の方で しずかに かっこうがないている。 風に吹かれて高いところにたつと だれでもしぜんに世界のひろさをかんがえる。 ぼくは手を口にあてて なにか下の方に向かって叫びたくなる。 五月の山は ぎらぎらと明るくまぶしい。 きみは山頂よりも上に 青い大きな弧をえがく 水平線を見たことがあるか。 この詩、色々と教材に使われている様だ。 →詩「山頂から」の音読授業をデザインする →大丈夫、あなたの居場所はちゃんとある~小野十三郎の詩「山頂から」~ |
2019-07-21 Sun 00:00
![]() 50年前の7月21日11時56分15秒(日本時間)、アームストロング船長が月面に第一歩を記した時、東京多摩地域は良い天気だったと記憶する。自分はプール授業も真面目に参加する中学生だったが、この日ばかりはプールとアポロ11号では選択の余地はなく、自宅にこもって西山千さんの同時通訳を聞きながらテレビ画面に釘付けになっていた。[画像提供:NASA] この日が感動的な一日になったことは確かだが、一連のアポロ計画の中で自分の心に最も強く残っているのは、実はアポロ11号でもなく月面着陸でもない。自分にとっての最大のイベントは、アポロ8号の大気圏再突入だった。これによって人類は宇宙から帰って来られることが証明され、つまりは宇宙へ出て行くことが可能になった瞬間だと、小6の自分にもそういう画期と感じられた。 [追記]ほんのり光房のみゃおさんも当然この日のことを記事に書いているが、彼もまた前人未到というか誰も考えないとか誰もやってみようとしないことに挑戦する人で、今回はアポロ各LMにおける着陸/出発時の月齢や太陽高度をすべて計算し、アーカイブ「アポロ着陸地点の観察」を公開している。 |
2019-02-27 Wed 00:00
![]() さあ、急いで学校へ行こうと慌てて衣服を着る時に限ってボタンが取れたりする。そんなときに母は、すぐに縫ってあげるから着たままこっちへ来なさいと言って繕い物をしてくれた。針が刺さる危険があるので本来ならば着たままで縫うことはルール違反だろう。敢えてそれを実行する時の安全のためのおまじないがあった。あなたも一緒に言いなさいと言われて、母と二人で呪文を繰り返し唱えながら縫ってもらったのも遠い昔のことになった。 王様の御用御用と多ければ着ててて縫うもめでたかりけり 王様が出てくるので新しいものかもしれないが、もしかしたら原型は殿様だったのかもしれない。「着ててて縫うも」という言い回しが子供心にもおかしく感じられて、「着たまま縫うも」だろうがと思っている。 この呪文も母のオリジナルだったのか、どこかに原型があるのか知りたいものだ。 [追記]こんな記事を見つけた。 →着針のおまじない☆ |
2017-09-21 Thu 00:00
ヨメさんは最近地域の子どもたちと話しをする機会があるらしい。子どもたちの話しに耳を傾ける中で、私の母から聞かされた私の子ども時代の話を思い出したらしい。あんたは子どもの頃から何かのプロジェクトを立ち上げてはそれを達成していく子だったようだねと、プロレスの覆面作りのエピソードを思い出したらしい。
![]() ![]() 順序としては、出来上がったマスクを持つ弟の写真をゴング社に送ったところ、それが1971年6月号の囲み記事で紹介されたので、実物を持参したのだったと記憶する(左写真)。 ![]() |
2016-05-16 Mon 00:00
![]() ![]() 林間学校から戻って数日後、友達3人と近くの広場でやっている団地の夏祭りを見に行った。アマチュアバンドがエレキギターを聞かせてくれて大満足。それに続くのど自慢大会を見物していたら、自治会のおばさんから「出場者少ないからあんたたち出てちょうだい」と言われ、そんじゃぁ覚えたばかりの「ブルー・シャトウ」を歌ってみようとほとんど躊躇なく舞台へ上がった。舞台の袖でちょっとだけ合わせて、いきなり3人アカペラで歌い切って、堂々の優勝。優勝賞品は自治会らしく洗剤の大箱。3人でジャンケンして、勝ったPマンが洗剤本体、2番目の私は「優勝」ののし紙、負けたKくんは手ぶらで帰った。 この日の思い出には続きがあって、私たちが無邪気に歌っていたその頃、そこから300mほど北を流れる玉川上水の千川取水口に水死体が引っかかっているのをクラスのK子が見つけていた。それは翌朝聞いた話。 以上、小5の林間学校に纏わる思い出話だが、どこかで既に書いたような気もするのだが、、、。この夏が去って秋が深まる頃、私は天文少年への一歩を踏み出す事になった。 |
2015-06-29 Mon 00:00
この前、軍艦島アーカイブスの記事の中で表題のようなことを書いたのだが、それは、日本の近代とその終焉を象徴するあの特異な軍艦島に限ったことではなさそうだ。身近な身の回りのものでさえどうすればこれほどまでに変われたのかと人間の感覚の頼りなさを感じてしまう。私たちの日常は24時間という短い時間が隙間なく連なっているため、わずかずつ移ろいゆく風景にはどうしても鈍感になってしまうようだ。
この前、実家に戻った時に子供時代のアルバムを見返しながらも同じことを考えていた。初めてカメラを手にした8歳の私が旅行先でのあれやこれらを撮ったアルバムから2枚をご覧に入れよう。もはや古写真の仲間入りだと思う。 ![]() ![]() 父も母も弟も健在だが、やはりあの人たちは、あのころの日本はどこへ行ってしまったのだろうかと思わないではいられない。 |
2015-05-27 Wed 00:00
・「青く光る湘南の海」その正体撮影 見られるかは運次第
![]() まだ本物を見たことはないが、「夜光虫」は『カムイ伝』(あるいは『カムイ外伝』、あるいは『サスケ』かも)で知った。小学校の6年生頃だったと思う。当時漫画雑誌の『少年サンデー』『少年マガジン』は友達のを教室で回し読みさせてもらい、自分は手塚治虫の「火の鳥」連載中の『COM』を毎月買っていた。『COM』はちょっと高めの雑誌だったので『ガロ』も買うことはごくたまのことだった。そのとき買った『ガロ』に掲載されていた白土三平の『カムイ伝』に「夜光虫」を身につけて暗闇を飛び回り幽霊を演じて人々を驚かせる女の話があった。光苔も出てきたかな?光苔は(原理は違うが)蛍光塗料のように受動的に光るらしいが、夜光虫は自立的に光を出せることに興味を持った。しかし、興味を持ったのは実際はそこではなく、女が素っ裸の肌に夜光虫を塗って闇を駆けているところがエロティックで、それが記憶に残っている理由なのだと正直に言っておこう。 |
2015-04-19 Sun 00:00
仕事の報告書に日付を書き込みながらふと思い出すことがあった。
それは遥か50年の昔、小学校の下見板張り2階建ての木造校舎1階の保健室で健康診断の数字を書き込んでいる私に「かすてんくんはきっと算数が好きね。数字を見ればわかる。」と保健の先生が言った。いまでもその時の保健室の風景が懐かしく思い出されるのは、よほど嬉しかったからか。小学校の保健の先生だからそれほど接する機会があったわけではないのに、人生を決定づけると言えば大げさだが、それから数年後、私は天文少年になるべくしてなっていた。 |
2014-11-09 Sun 00:00
カテゴリーを「天文少年の時代」にしたが実際は天文少年になるよりも前のこと。武蔵野市立境北小学校3年生の時、社会科見学で市内のいくつかの施設をバスで巡った。どこを回ったかあまり覚えていないが、市役所、横河電機、井の頭公園などを見学した様な気がする。
![]() [写真は現在の地下道をモノクロームにしてみたが、当時は周囲に高い建物は無かったと思う] みゃおさんのISS天体面通過予報を見るたびに、交差するだけで十分楽しいのですと、49年前のM先生と三鷹地下道の風景を今も思い出す。 |
2013-09-04 Wed 00:00
この前、EdgeHD800とTS65Pを親子亀式に同架したことを書いたが、我々の世代としては「親子亀」と聞いてナンセンストリオを話題にせずに素通りすることはできなかった。あの時に紹介した動画もすばらしいが、他にもいろいろと面白いものがあった。
「昭和の演芸50本勝負」とでも名付けたいようなミックスリストがある。暇のある方は50本通しでご覧いただきたい。そんな暇人ではないよと言われる方のために私のお気に入りを何本かピックアップしてみた。 ![]() →由利徹のパントマイム →東京コミックショー →ビジーフォー SOUL MUSIC MEDLAY 初期1981 →桂子・好江 →堺すすむ 「 なんでかフラメンコ 」 →さいざんすマンボ →クレージーキャッツ タモリ →談志 志ん朝追悼 →島田洋之介・今喜多代(1978) →『米朝 ・ 枝雀』対談 "愛宕山 談義" rakugo |
2013-06-29 Sat 00:00
rikako先生の「おもしろ!ふしぎ?実験隊」の過去記事の中にホロスペクスフィルムを紹介する記事があった。ここにある骨が透けて見える写真を見て我がおバカ育成期のことを思い出した。
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2013-05-15 Wed 00:00
私が育った東京武蔵野市の公団桜堤団地。昭和34年から入居が始まり、我が家もその年の内に北区の母の実家からここへ移った。入ったのは桜堤団地唯一の星形住宅102号棟。自宅南西直ぐにある西公園は、放課後みなが集って遊ぶ三角ベース手打ち野球のグラウンドだった。近くには玉川上水の堤や小金井公園があり桜の季節の花見の場所には事欠かなかったが、そこまで出向かなくても団地の中はどこもかしこも桜の名所だった。でも、小学校時代にいっしょに星見をしたN君の伏見屋食堂兼自宅もかなり前から空き家になって朽ちていき、時代は団地の全面立て直しへと流れていった。それでも、我が家の南側50m程のところにあったJRの鉄塔だけはいまも同じ場所に当時のまま立っている。
![]() リンクは『団地百景』の中の「公団桜堤団地」を使わせていただいた。今は無くなってしまった懐かしい風景を記録してくれていたサイトの管理人さんに感謝感謝。 [追記]『団地百景』のHAM@団地百景管理人さんからリンクのお許しに添えて「唯一の星形棟に住んでいて天文少年になったというのは何か運命的ですね(笑)」というメールをいただいた。あぁ、いままで気づかなかった星との繋がり。HAMさん、ありがとう。 |
2012-05-25 Fri 00:00
3.11以降、大阪府下熊取町の住所をたびたび耳にするようになった。熊取六人衆と言われる小出裕章さんや今中哲二さんの所属する京大原子炉実験所の所在地だからだ。熊取と聞くと思い出す中学生時代の小さなエピソードがある。
中学3年のとき、私はTS-50購入資金の足しにするため、それまで使っていた成東商会の赤道儀架台を『月刊天文ガイド』の売りますコーナーに出した。それに応じてくれたのが、大阪府下熊取郡熊取町に住む同じ歳の少年だった。彼の主力機はミザールの10cm反射赤道儀(おそらくH-100型だったと思う)で、それに当時発売されたばかりのモータードライブを付けて自動ガイド撮影をしていた。手動ガイドが一般的な時代だったので羨ましさよりも中学生でも様々なレベルがあるものだと大いに感心した記憶がある。取引したのをきっかけにしばらく文通をしていたが、それも次第に疎遠となりその後の消息は分からない。当時のことを思い出すことがあれば先方でもこう思っているに違いない、東京の彼は今でも星を見ているのだろうか、と。 ![]() |
2011-01-30 Sun 00:00
昨日(1/28)の朝のNHK「おはよう日本」での特集2011暮らしのかたち(2)のテーマは「若者に人気 “多世代ホームシェア”」だった。血縁関係のない、世代も様々な人たちが、部屋は個室だが食事その他の生活の場面を共同で暮らすタイプの住まいで、若い人たちの感想は「人間関係が煩わしいかと心配していたがそんな事は無かった」「近くに大人がいるという安心感がある」などだった。
これって下宿じゃないかと思ったときに、森本健成キャスターが「昔はホームドラマでよく出てきましたよね」とコメント。まさに私もそれを思っていた。森本氏と私の頭の中にはきっと同じドラマが浮かんでいたのだと思う。 ![]() [写真は「何気ない日々の出来事」からお借りした] →参考:「華麗なる日活映画の世界」の「浅丘ルリ子さんの主なドラマ出演作品」 今夜の観測:ε Aur3.7等、RX Lep5.6等、U Mon7.2等、W Ori6.0等。 |
2010-02-16 Tue 00:30
![]() ![]() アルペン種目はウィンタースポーツの華のはずだが、日本選手の活躍があまり期待されていない種目のためニュースではほとんど取り上げられないのが残念だ。それでも動画はここで見られるのがありがたい。(→gorin.jp) [追記]これを書いた後で、ナディヒの思い出を綴ったサブ刈さんのページを見つけた。 →トリノ日記 滑降女子が華なのだ! |
2009-10-06 Tue 00:14
![]() ![]() ![]() そのときの担任は恰幅の良いタヌキというあだ名の工藤敦雄先生。ちょっと怖い先生ではあったが、生徒を信頼してくれているのが分かる、生徒側からも信頼できる筋の通った先生だった。工藤先生とはいまも連絡を取っている。先生はベテランであったとは言え、私達の世代は本当に手をかけて育ててもらったと思う。と同時に当時は先生にもゆとりがあったのだと感じられる。 |
2009-09-24 Thu 00:05
この前晏次郎さんが「望遠鏡と共に(一)」の中で中学生時代を振り返って、「私は本が好きで目に付く本を次から次で財布はいつも空っぽ状態。」と書かれていた。私が本に夢中になったのは高校時代、興味の赴くままなんでもかんでも買い漁り読み漁っていた。それでちょっと思い出した。
![]() ところが最初こそ強制されたわけだが、実は瞬く間に嵌ってしまい、本を読んで、その読後感を書くという一連の作業を経たときに読書が完結するようにさえ感じられるようになってしまった。そのうちに記す内容は読書の範囲を大きく逸脱し、読書ノートの白いページは自分の心と対話する場になって行った。 ![]() で、16歳春から25歳の夏まで書き綴った読書ノート、、、今も残っていた。 |
2008-09-20 Sat 20:21
小中学生の頃、「趣味は天体観測」と言ったり言われたりするのが嫌だった。天体望遠鏡で星を見たり写真を撮ったりはするけれど、それは観測ではないと思っていたからだ。「観測」と言うからには科学的データの収集でなくてはならないと子供ながらに厳密に分けて考えていたようだ。
![]() 現在細々とやっている変光星観測。「観測」に値する科学的データを収集・提供できているか、常に自分に問いかけつつ夜空を見上げている(つもり)。 全然別の話題だが、晏次郎さんの最新記事「こんな時の為に」で我がTS-65Pなど「チビ機材」が復権しているのが実はこっそり嬉しかったりして。 |
2008-09-06 Sat 21:07
カタログといえば、子供の頃はカタログ少年だった。『月刊天文ガイド』そのものがカタログみたいなものだったが、メーカーや機材会社へも郵送でカタログを請求した。ほとんどが有料で切手代用可だったので、家の買い置き切手がどんどん無くなった。そのうちに、望遠鏡機材のカタログが次々に送られて来て親にバレて叱られた。
![]() そうそう天体望遠鏡カタログといえばガラクマさんの『昔欲しかった天体望遠鏡』>「レトロ望遠鏡資料館」がすばらしい充実度。懐かしいカタログが展示されている。 |
2008-03-05 Wed 00:30
![]() 昭和40年代、住宅街の中に天体望遠鏡のドームがあるのはかなり異様な風景だった。『天ガ』の広告で反射鏡の製作所であると分かったが、小学生の小遣いで買える製品でなかったことから、買う気もないのに訪ねて行く理由が見つからなくて、自宅からわずかの距離であったにもかかわらず行かず仕舞だった。小学生がおずおずと訪ねて行くだけで十分だったと思う。今になってみると躊躇したことが悔やまれる。 上の写真は旧足立光学付近の昭和59年航空写真で、この中に写っているのは確かだが、ここという場所が特定できない。ご記憶の方はお知らせいただけるとありがたい。 [追記:その後、斜光線さんに頂いた情報から所在地を確定。上の航空写真に追加した。] 今夜の観測:曇り予報だったので期待せずに夕食後空を見上げたら星が見えた。急いで外へ出たがやはり見えたのはU Mon5.8等だけ。風はあるがあまり寒く感じなくなった。春が近い。 |
2008-02-02 Sat 23:54
4回もこのネタではみなさん食傷気味のはず。これは自分用のメモなので、先日コメントのレスに書いたのとほぼ同じ内容です。で、以下はスルーして下さい。
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2008-01-27 Sun 00:08
37年前の中学3年の夏休みに一人関西方面を旅したときの旅行記の第3弾。ただし、今回はタイトルの明石天文科学館ではない。[→その1、その2]
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2008-01-24 Thu 00:11
東京に住んでいた中学3年の夏休み、一人旅で明石天文科学館などを訪問したときの旅行記第2弾。[→その1]
![]() ![]() ![]() ![]() これを読んで思い出したが、別の科学館へも行っていた。というわけで、さらにつづく、、、 |
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