2007年、33年の時間を巻き戻し天文少年ならぬ天文壮年へ再入門。隊員1名。その後の変化でただいま星空は休眠状態。郷土史、草刈り、読書、ドローンの記事が多くなっています。
真夏でも朝はひんやり涼しかった
2022-08-20 Sat 00:00
2208191.jpegこの写真は9時を過ぎてかなり暑くなってから撮ったので、雲が出て空の青さも薄れているが、今朝起きた時はひんやり涼しくて紺碧の空が広がっていた。子どもの頃の夏の朝の感じ。ラジオ体操をしに冷たい空気の中を駆け出していった小学校時代の夏の朝を思い出す。
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小中学生の時に見た広い視界
2020-05-18 Mon 00:24
この前、木津川計のインタビューを聞いていた時、全号赤字だった『上方芸能』を200号まで出し続ける力になったのは、小野十三郎の「軽く翼を水平に泳がせて重たい荷物を運ぼう」という言葉に励まされたことだったと語っていた。

小野十三郎というと、小学校だったか中学校だったかの国語の教科書の巻頭詩で名前を記憶している。それが、なんと言う詩だったのか、何年生の教科書だったか、他の学年の巻頭詩は誰の何だったか、まったく記憶にないのだが、どういうわけだか小野十三郎の名前だけが鮮明に記憶されている。それはどんな詩だったのか気になったので探してみた。

で見つかった。「山にのぼると 海は天まであがってくる。」で始まる『山頂から』だ。言葉の力だけでこの広〜い視界を得たときの高揚感が十代前半の自分の記憶の底にそれからずっと残ったのだ。

   山頂から
           小野十三郎

山にのぼると
海は天まであがってくる。
なだれおちるような若葉みどりのなか。
下の方で しずかに
かっこうがないている。
風に吹かれて高いところにたつと
だれでもしぜんに世界のひろさをかんがえる。
ぼくは手を口にあてて
なにか下の方に向かって叫びたくなる。
五月の山は
ぎらぎらと明るくまぶしい。
きみは山頂よりも上に
青い大きな弧をえがく
水平線を見たことがあるか。

この詩、色々と教材に使われている様だ。
 →詩「山頂から」の音読授業をデザインする
 →大丈夫、あなたの居場所はちゃんとある~小野十三郎の詩「山頂から」~
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1968年12月27日と1969年7月21日
2019-07-21 Sun 00:00
1907171.jpg・Apollo 50th:NASA
 50年前の7月21日11時56分15秒(日本時間)、アームストロング船長が月面に第一歩を記した時、東京多摩地域は良い天気だったと記憶する。自分はプール授業も真面目に参加する中学生だったが、この日ばかりはプールとアポロ11号では選択の余地はなく、自宅にこもって西山千さんの同時通訳を聞きながらテレビ画面に釘付けになっていた。[画像提供:NASA]
 この日が感動的な一日になったことは確かだが、一連のアポロ計画の中で自分の心に最も強く残っているのは、実はアポロ11号でもなく月面着陸でもない。自分にとっての最大のイベントは、アポロ8号の大気圏再突入だった。これによって人類は宇宙から帰って来られることが証明され、つまりは宇宙へ出て行くことが可能になった瞬間だと、小6の自分にもそういう画期と感じられた。

[追記]ほんのり光房のみゃおさんも当然この日のことを記事に書いているが、彼もまた前人未到というか誰も考えないとか誰もやってみようとしないことに挑戦する人で、今回はアポロ各LMにおける着陸/出発時の月齢や太陽高度をすべて計算し、アーカイブ「アポロ着陸地点の観察」を公開している。
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中学時代、教室の窓から侵入してきたあの異臭は一体何だったのだろうか
2019-07-20 Sat 00:00
この前サリン事件のことを書きながら思い出したことがある。
1907172.jpg記憶はかなり曖昧だが、48、9年前の武蔵野二中時代、暑い季節、午後になると教室の窓から気持ち悪くなりそうな刺激臭が侵入してくることがあった。幸い何時間も続くことは無かったが、暑い季節には度々同じ様なことがあったと記憶する。今ならば発生源を突き止めたいと思うはずだが、当時友達同士では「授業中臭かったね」以上の話をした記憶が無い。自分なりに疑っていたのは、光化学スモッグとすぐ東隣の浄水場だったが結局何も行動に移さない前に臭いの問題は無くなった様な気がする。異臭が消えたのか、あるいは秋になって窓を閉める季節になり間も無く卒業したために自分の意識から消えただけなのか今となっては分からない。あの臭いが浄水場からの異臭だったのかどうか、臭いの記憶もおぼろげになってしまった今、もう調べる手立ては無いかな。
[浄水場と中学校は今も同じ場所にある。校舎は建て替わったが★印の4階に教室はあった]
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母のおまじない その2
2019-02-27 Wed 00:00
1901122.jpgこの前、母に教わった新しい靴を下すときのおまじないのことを書いたが、覚えているものがもうひとつある。
さあ、急いで学校へ行こうと慌てて衣服を着る時に限ってボタンが取れたりする。そんなときに母は、すぐに縫ってあげるから着たままこっちへ来なさいと言って繕い物をしてくれた。針が刺さる危険があるので本来ならば着たままで縫うことはルール違反だろう。敢えてそれを実行する時の安全のためのおまじないがあった。あなたも一緒に言いなさいと言われて、母と二人で呪文を繰り返し唱えながら縫ってもらったのも遠い昔のことになった。

  王様の御用御用と多ければ着ててて縫うもめでたかりけり

王様が出てくるので新しいものかもしれないが、もしかしたら原型は殿様だったのかもしれない。「着ててて縫うも」という言い回しが子供心にもおかしく感じられて、「着たまま縫うも」だろうがと思っている。
この呪文も母のオリジナルだったのか、どこかに原型があるのか知りたいものだ。

[追記]こんな記事を見つけた。
 →着針のおまじない☆
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母のおまじない その1
2019-01-13 Sun 00:00
1901121.jpgここをご覧の読者のみなさんは、新しい履物を下ろすときに、何かおまじないのようなことをしないだろうか?
私はいまでも母から教わったことをやっている。
それは、履物の底にペッペッと唾をつけてから玄関に下ろすこと。
ただ、母には、なぜこの様にするのかという理由と、誰から教わったのかを聞きそびれてしまった。同じ様なことをする人はいるのだろうか、それとも母だけのオリジナルだったのか。
私の母は、昭和一桁生まれで東京北区出身、埼玉県入間郡出身の明治十年代生まれの父と八丈島出身の明治二十年代生まれの母を親に持っていた。このどこかに源泉があるのだろうが、今となってはわからない。似たようなまじないを覚えている人がいれば教えて欲しいと思っている。
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小説との出会いの1冊 『天使で大地はいっぱいだ』
2018-02-12 Mon 00:00
1801131.jpg『天使で大地はいっぱいだ』 後藤竜二 作 市川楨男 絵
                講談社 1967年 480円

この本のことはどこかで書いたと思っていたが、なかった様なので書いておきたい。世界の名作文学以外の新作として読んで心に深く残った(いまも残っている)、自分にとっての小説との最初の出会いの記念すべき1冊だ。今読み返すと、サリンジャーの小説みたいな文体(と言っても野崎孝翻訳の文体だが)なのは、本書が書かれたのがそんな時代だったからだろうか。

こういう爽やかで純情な物語がまだリアリティを持って受け入れられた時代に育ったこと、いまや遠い彼方へ飛び去って行った時間、そんなことを改めて感じる。
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ミル・マスカラスのマスク製作-プロジェクト 
2017-09-21 Thu 00:00
ヨメさんは最近地域の子どもたちと話しをする機会があるらしい。子どもたちの話しに耳を傾ける中で、私の母から聞かされた私の子ども時代の話を思い出したらしい。あんたは子どもの頃から何かのプロジェクトを立ち上げてはそれを達成していく子だったようだねと、プロレスの覆面作りのエピソードを思い出したらしい。
昭和30年代初め、当時住んでいた北区中十条の家と十条駅との中間辺りにちょっとした空き地があって、そこに街頭テレビがあった。夕食を食べ終わってから、父がプロレスを見に行くのに何度か付き合わされた。でも、今回の話と街頭テレビとは直接の関係は無い。

1708242.jpg物心つく頃には私は天文少年への道を歩んでいたが、2歳年下の弟はプロレス好きだった父の影響もあって、すっかりプロレスファンになっていた。おそらくいまでも『ゴング』を1968年の創刊号から数十年分は持っているはずだ(途中からは買わなくなったと思うが)。1971年の夏、14歳の私は弟を連れて、後楽園球場を尻目に殺して、水道橋の駅から当時文京区白山にあった『ゴング』の日本スポーツ出版社のプレハブ社屋を目指して歩いて行った。
1708243.jpgその日は、当時人気上昇中の覆面レスラー ミル・マスカラスのマスクを真似して作った手縫いのマスクを数枚持参していた。母の裁縫箱に残っていた端切れをもらって製作したものなので、いかにも女性のスカート生地という柄ものばかりで、編集者の竹内宏介さんにたいそう受けたのを覚えている。
順序としては、出来上がったマスクを持つ弟の写真をゴング社に送ったところ、それが1971年6月号の囲み記事で紹介されたので、実物を持参したのだったと記憶する(左写真)。1709082.jpgこの時に持参した自作マスクは竹内さんを通じて来日したマスカラスにプレゼントされ、マスカラスからはお返しのマスクをもらった(右写真:右はマスカラスのマスクを被った弟、左は私が作ったマスクを被った人形)。

お城友達の根本くんが担当しているFMだいごの音楽番組「根本くんと橋本くん」を聞きながらこの記事を書いていたら、なななんと相方の橋本くんがミル・マスカラスを話題にしているではないか。彼らとは近い世代だから流れる音楽が懐かしいのはともかくとして、プロレスもまた同世代感を共有するネタになることを感じさせられた。
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天文少年になる直前の夏の思い出
2016-05-16 Mon 00:00
1605071.jpg小学校5年の夏の林間学校は、武蔵野市の宿泊施設のある富士吉田へ行った。その行き帰りのバスの中は当時人気上昇中のブルーコメッツの歌で盛り上がりに盛り上がった。私は世間の流行に疎く、グループサウンズが流行り始めている事などそれまでまったく知らなかったのだが、帰宅する頃には、「何処へ」「ブルー・シャトウ」「マリアの泉」など何曲かは歌えるようになっていた。
1605072.jpg林間学校で覚えた曲はそればかりでない。富士吉田の施設の近くで見た雪代(ゆきしろ)と呼ばれる水無し川のような地形、これに着想を得たPマンが♪富士吉田の雪代散歩するたけ彦みち子の二人づれ〜と歌い始め、まもなくクラスで大合唱。当時からかわれていた二人には迷惑この上なかっただろうが、小5のガキどもが歌う替え歌が「金色夜叉」とは、今にして思うとそうとうぶっ飛んだ話だったと思う。

林間学校から戻って数日後、友達3人と近くの広場でやっている団地の夏祭りを見に行った。アマチュアバンドがエレキギターを聞かせてくれて大満足。それに続くのど自慢大会を見物していたら、自治会のおばさんから「出場者少ないからあんたたち出てちょうだい」と言われ、そんじゃぁ覚えたばかりの「ブルー・シャトウ」を歌ってみようとほとんど躊躇なく舞台へ上がった。舞台の袖でちょっとだけ合わせて、いきなり3人アカペラで歌い切って、堂々の優勝。優勝賞品は自治会らしく洗剤の大箱。3人でジャンケンして、勝ったPマンが洗剤本体、2番目の私は「優勝」ののし紙、負けたKくんは手ぶらで帰った。
この日の思い出には続きがあって、私たちが無邪気に歌っていたその頃、そこから300mほど北を流れる玉川上水の千川取水口に水死体が引っかかっているのをクラスのK子が見つけていた。それは翌朝聞いた話。

以上、小5の林間学校に纏わる思い出話だが、どこかで既に書いたような気もするのだが、、、。この夏が去って秋が深まる頃、私は天文少年への一歩を踏み出す事になった。
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あの人たちは、あのころの日本はいったいどこへ行ってしまったのだろう
2015-06-29 Mon 00:00
この前、軍艦島アーカイブスの記事の中で表題のようなことを書いたのだが、それは、日本の近代とその終焉を象徴するあの特異な軍艦島に限ったことではなさそうだ。身近な身の回りのものでさえどうすればこれほどまでに変われたのかと人間の感覚の頼りなさを感じてしまう。私たちの日常は24時間という短い時間が隙間なく連なっているため、わずかずつ移ろいゆく風景にはどうしても鈍感になってしまうようだ。

この前、実家に戻った時に子供時代のアルバムを見返しながらも同じことを考えていた。初めてカメラを手にした8歳の私が旅行先でのあれやこれらを撮ったアルバムから2枚をご覧に入れよう。もはや古写真の仲間入りだと思う。

1505061.jpg1964年9月の外房勝浦の港近く。魚の入った網を担ぐおばさんの跡を追う弟。この広々とした未舗装(に見える)道がいい。この道は現在どうなっているのか、2004年に勝浦へ行った時の写真を見返してもここがどこなんだかさっぱりわからなかった。

1505062.jpgこれは勝浦駅前での母と弟。51年前にしてはモダンだな。

父も母も弟も健在だが、やはりあの人たちは、あのころの日本はどこへ行ってしまったのだろうかと思わないではいられない。
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夜光虫
2015-05-27 Wed 00:00
・「青く光る湘南の海」その正体撮影 見られるかは運次第
1505261.jpg

 まだ本物を見たことはないが、「夜光虫」は『カムイ伝』(あるいは『カムイ外伝』、あるいは『サスケ』かも)で知った。小学校の6年生頃だったと思う。当時漫画雑誌の『少年サンデー』『少年マガジン』は友達のを教室で回し読みさせてもらい、自分は手塚治虫の「火の鳥」連載中の『COM』を毎月買っていた。『COM』はちょっと高めの雑誌だったので『ガロ』も買うことはごくたまのことだった。そのとき買った『ガロ』に掲載されていた白土三平の『カムイ伝』に「夜光虫」を身につけて暗闇を飛び回り幽霊を演じて人々を驚かせる女の話があった。光苔も出てきたかな?光苔は(原理は違うが)蛍光塗料のように受動的に光るらしいが、夜光虫は自立的に光を出せることに興味を持った。しかし、興味を持ったのは実際はそこではなく、女が素っ裸の肌に夜光虫を塗って闇を駆けているところがエロティックで、それが記憶に残っている理由なのだと正直に言っておこう。
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天文少年への招待状
2015-04-19 Sun 00:00
仕事の報告書に日付を書き込みながらふと思い出すことがあった。

それは遥か50年の昔、小学校の下見板張り2階建ての木造校舎1階の保健室で健康診断の数字を書き込んでいる私に「かすてんくんはきっと算数が好きね。数字を見ればわかる。」と保健の先生が言った。いまでもその時の保健室の風景が懐かしく思い出されるのは、よほど嬉しかったからか。小学校の保健の先生だからそれほど接する機会があったわけではないのに、人生を決定づけると言えば大げさだが、それから数年後、私は天文少年になるべくしてなっていた。
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ISS天体面通過と中央線三鷹駅西側地下道通過
2014-11-09 Sun 00:00
カテゴリーを「天文少年の時代」にしたが実際は天文少年になるよりも前のこと。武蔵野市立境北小学校3年生の時、社会科見学で市内のいくつかの施設をバスで巡った。どこを回ったかあまり覚えていないが、市役所、横河電機、井の頭公園などを見学した様な気がする。

1411061.jpg後日その時の見学記を書かされた。それを読んだ担任のM先生からある箇所について尋ねられた。三鷹駅西側の国鉄中央線の地下道をくぐる場面で、「バスが通過するときに中央線の電車と立体交差したらもっと良かったのに」と書いたのに対して、「これはどういうこと?なぜ立体交差したらもっと良かったのかしら?」と質問されたのだ。こんな当たり前の楽しい感覚に説明がいるのか?と子供心に驚いた記憶がある。
[写真は現在の地下道をモノクロームにしてみたが、当時は周囲に高い建物は無かったと思う]

みゃおさんのISS天体面通過予報を見るたびに、交差するだけで十分楽しいのですと、49年前のM先生と三鷹地下道の風景を今も思い出す。
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YouTube「昭和の演芸50本勝負」
2013-09-04 Wed 00:00
この前、EdgeHD800とTS65Pを親子亀式に同架したことを書いたが、我々の世代としては「親子亀」と聞いてナンセンストリオを話題にせずに素通りすることはできなかった。あの時に紹介した動画もすばらしいが、他にもいろいろと面白いものがあった。

「昭和の演芸50本勝負」とでも名付けたいようなミックスリストがある。暇のある方は50本通しでご覧いただきたい。そんな暇人ではないよと言われる方のために私のお気に入りを何本かピックアップしてみた。
1308176.jpg →早野凡平
 →由利徹のパントマイム
 →東京コミックショー
 →ビジーフォー SOUL MUSIC MEDLAY 初期1981
 →桂子・好江
 →堺すすむ 「 なんでかフラメンコ 」
 →さいざんすマンボ
 →クレージーキャッツ タモリ
 →談志 志ん朝追悼
 →島田洋之介・今喜多代(1978)
 →『米朝 ・ 枝雀』対談   "愛宕山 談義" rakugo
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怪しき露店のホロスペックスフィルム(?)
2013-06-29 Sat 00:00
rikako先生の「おもしろ!ふしぎ?実験隊」の過去記事の中にホロスペクスフィルムを紹介する記事があった。ここにある骨が透けて見える写真を見て我がおバカ育成期のことを思い出した。

1306281.jpg小学生の時、昭和40年頃のある日の午後、どこからともなくやって来た怪しげなおじさんが小学校の近くで露店を拡げて下校時刻を待っていた。手品のタネやら謎めいたおもちゃやら子どもの興味をそそりそうなものばかりを並べた露店が下校時の小学校正門の真向かいの空き地に突如として現れるのだから、そりゃもう入れ食い状態だ。この前こんなおじさんを見たのは1年も前になるだろうか、このときを逃すと次はいつ手に入るか分からない。家へすっ飛んで帰ってなけなしのお小遣いを握って舞い戻り露店の品々を物色する。その中に骨や鉛筆が透けて見えるスコープがあった。私、買いました。まさにrikako先生の記事の写真の様に見えたことを覚えている。でも、一週間もすればもう見るものも無いので、お決まりの分解へ。外見は筒先に「ちり紙」のような物が張ってあるだけ、きっと筒内に何か仕掛けがあるはずとその「ちり紙」を取り除いてみたところ、なんとただの筒だ。それならば「ちり紙」でも代用できるかもしれないと筒先に「ちり紙」を張ってみた。でも骨は透けて見えない。当たり前か。rikako先生の記事とそのリンク先のおかげで、いま40数年振りに謎が解けた。おバカな小学生のおバカな銭失いだったが、この記事のネタになったので元は取れたということにしよう。
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始めての天体観測場所
2013-05-15 Wed 00:00
私が育った東京武蔵野市の公団桜堤団地。昭和34年から入居が始まり、我が家もその年の内に北区の母の実家からここへ移った。入ったのは桜堤団地唯一の星形住宅102号棟自宅南西直ぐにある西公園は、放課後みなが集って遊ぶ三角ベース手打ち野球のグラウンドだった。近くには玉川上水の堤や小金井公園があり桜の季節の花見の場所には事欠かなかったが、そこまで出向かなくても団地の中はどこもかしこも桜の名所だった。でも、小学校時代にいっしょに星見をしたN君の伏見屋食堂兼自宅もかなり前から空き家になって朽ちていき、時代は団地の全面立て直しへと流れていった。それでも、我が家の南側50m程のところにあったJRの鉄塔だけはいまも同じ場所に当時のまま立っている

1305061.jpg写真は先日5月6日に撮って来たもの。自宅と鉄塔の間にあった道路跡付近から見上げた南の空。小学校5年生の秋に星座早見盤で実際の空の星の並びを知ることができることに驚いた、始めての天体観測の場所がここ。当時よりも樹木の枝が伸びて空はものすごく狭くなっていた。

リンクは『団地百景』の中の「公団桜堤団地」を使わせていただいた。今は無くなってしまった懐かしい風景を記録してくれていたサイトの管理人さんに感謝感謝。

[追記]『団地百景』のHAM@団地百景管理人さんからリンクのお許しに添えて「唯一の星形棟に住んでいて天文少年になったというのは何か運命的ですね(笑)」というメールをいただいた。あぁ、いままで気づかなかった星との繋がり。HAMさん、ありがとう。
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熊取郡のあの彼は
2012-05-25 Fri 00:00
3.11以降、大阪府下熊取町の住所をたびたび耳にするようになった。熊取六人衆と言われる小出裕章さんや今中哲二さんの所属する京大原子炉実験所の所在地だからだ。熊取と聞くと思い出す中学生時代の小さなエピソードがある。

中学3年のとき、私はTS-50購入資金の足しにするため、それまで使っていた成東商会の赤道儀架台を『月刊天文ガイド』の売りますコーナーに出した。それに応じてくれたのが、大阪府下熊取郡熊取町に住む同じ歳の少年だった。彼の主力機はミザールの10cm反射赤道儀(おそらくH-100型だったと思う)で、それに当時発売されたばかりのモータードライブを付けて自動ガイド撮影をしていた。手動ガイドが一般的な時代だったので羨ましさよりも中学生でも様々なレベルがあるものだと大いに感心した記憶がある。取引したのをきっかけにしばらく文通をしていたが、それも次第に疎遠となりその後の消息は分からない。当時のことを思い出すことがあれば先方でもこう思っているに違いない、東京の彼は今でも星を見ているのだろうか、と。

120524.jpg[参考]ミザールH-100型についてはまぁしいさんのページで詳しく紹介されている。写真もお借りした。
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“多世代ホームシェア” それって下宿でしょう
2011-01-30 Sun 00:00
昨日(1/28)の朝のNHK「おはよう日本」での特集2011暮らしのかたち(2)のテーマは「若者に人気 “多世代ホームシェア”」だった。血縁関係のない、世代も様々な人たちが、部屋は個室だが食事その他の生活の場面を共同で暮らすタイプの住まいで、若い人たちの感想は「人間関係が煩わしいかと心配していたがそんな事は無かった」「近くに大人がいるという安心感がある」などだった。
これって下宿じゃないかと思ったときに、森本健成キャスターが「昔はホームドラマでよく出てきましたよね」とコメント。まさに私もそれを思っていた。森本氏と私の頭の中にはきっと同じドラマが浮かんでいたのだと思う。

110129.jpg『3丁目4番地』:森光子が下宿屋の主人、浅丘ルリ子の役は何だったのだろうか(長女だったらしい)、下宿人は石坂浩二、原田芳雄、藤村俊二、寺尾聰、黒沢久雄、、、。三遊亭円生が古時計(ナレーション)と記憶していたのだが、ネットで見ると嵐寛寿郎だったらしく40年来のおもこと判明(後日改めて三遊亭円生と判明)。ちょっと暗めの電灯の下、いつも大きな一つテーブルで皆がいっしょに食事をしている、それを柱の古時計が見下ろしている場面が印象的。ほとんどのエピソードは忘れてしまったが、気象庁勤務の原田芳雄扮する六さんが夜中にごそごそやっているのを爆弾でも製造しているのではないかと不審に思った他の住人たちが(時代を感じさせる設定だなぁ)、天井裏に頭を突っ込んで何かをしている現場を取り押さえると、そこには見事な鉄道模型が敷かれていたという他愛ないもの。主題歌はビリーバンバン「さよならをするために」(石坂浩二作詞、坂田晃一作曲)。『2丁目3番地』の続編として1972年1月から4月の日本テレビ土曜ドラマで放映。私は中学3年の冬で、下宿生活とか研究機関職員に憧れを持った。
[写真は「何気ない日々の出来事」からお借りした]
→参考:「華麗なる日活映画の世界」の「浅丘ルリ子さんの主なドラマ出演作品」

今夜の観測:ε Aur3.7等、RX Lep5.6等、U Mon7.2等、W Ori6.0等。
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札幌冬季オリンピックの想い出
2010-02-16 Tue 00:30
1002152.jpgバンクーバー冬季オリンピックが始まった。スポーツに興味があるわけではないし、とくに冬季オリンピックは経済格差の展示会みたいだし、ナショナリズムの押しつけも鬱陶しく、積極的に見ることはほとんどない。そんな中で、唯一見たい競技はアルペン種目だ。中学3年の春、札幌オリンピックで初めて目にした冬季競技、それも女子アルペンは天文少年の目にも鮮烈な光を投じた。

100215.jpg覚えているだろうか、スイスの弾丸娘マリテレーゼ・ナディヒ(Marie-Theres NADIG:→Wiki翻訳)。彗星の様に登場し、女子滑降、大回転と連覇。三冠の掛かった回転は失権したものの、ポチャリ体型、林檎のほっぺ、爽やか笑顔がとても印象的な17歳だった。ネットで検索したら健在でスイスのFlumserbergというスキー場でスキー店を経営しているらしい。

アルペン種目はウィンタースポーツの華のはずだが、日本選手の活躍があまり期待されていない種目のためニュースではほとんど取り上げられないのが残念だ。それでも動画はここで見られるのがありがたい。(→gorin.jp)

[追記]これを書いた後で、ナディヒの思い出を綴ったサブ刈さんのページを見つけた。
 →トリノ日記 滑降女子が華なのだ!
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中学3年生「歩みのノート」から
2009-10-06 Tue 00:14
0909214.jpgこの前、高校時代に書き始めた「読書ノート」のことを書いたが、それよりも前の中学3年の春にも担任から大学ノート1冊を渡され「歩みのノート」を書かされていた[左写真]。卒業を控えた3年生の今の自分、将来の自分をみつめてみなさいという趣旨のプリントが添えられている。0909212.jpg担任は毎週ノートを読んで、それに励ましやアドバイスの短いコメントを付してくれた。こうしてみるとこの中学3年のときにすでに後の「読書ノート」のスタイルは方向付けられていたとも言える。ノートの裏表紙にはNikon 8cmのこんな絵が、、、[右写真]。当時の中学生には手の届かない憧れの望遠鏡だったからなぁ。

0909215.jpg「将来の夢」について書いた文章を読み返して笑ってしまった。天文学は勉強したいが天文学者になろうとは思わないとか、どんな生活を送るようになっても「星」とのつきあいはやめたくないとか、天体望遠鏡メーカーに入って望遠鏡を普及させ天文への関心を高め公害や光害を許さない社会を作りたいとか、やりたいことがあまりに多すぎてこまるとか、書きたい放題書いている。当時は星だけでなくギターにも夢中だったのでこんなイラストまで描いていた。よく見るとこれはTS-50+NikonF+Nikkor200mmF4だ。[左写真]。

そのときの担任は恰幅の良いタヌキというあだ名の工藤敦雄先生。ちょっと怖い先生ではあったが、生徒を信頼してくれているのが分かる、生徒側からも信頼できる筋の通った先生だった。工藤先生とはいまも連絡を取っている。先生はベテランであったとは言え、私達の世代は本当に手をかけて育ててもらったと思う。と同時に当時は先生にもゆとりがあったのだと感じられる。
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読書ノート
2009-09-24 Thu 00:05
この前晏次郎さんが「望遠鏡と共に(一)」の中で中学生時代を振り返って、「私は本が好きで目に付く本を次から次で財布はいつも空っぽ状態。」と書かれていた。私が本に夢中になったのは高校時代、興味の赴くままなんでもかんでも買い漁り読み漁っていた。それでちょっと思い出した。

0909216.jpg私が本好きになるきっかけを作ってくれたのは高校2年のときの現国の非常勤講師○○先生。当時はおばちゃんに見えたが今思うと20代後半くらいで若かったのだと思う。小柄でぽちゃっとした地味な先生だった。その○○先生から「読書ノートを作ってみなさい」と課題が出た。1冊ノートを買ってきて、授業で読んだ本や自分で買って読んだ本についてタイトルと感じたことを記すように、学期末には提出させると言う。やれやれ面倒くさいと思って書き始めたが、1回提出があった後、2度目以降の提出は無かったのでやめたければそこでやめても良かった。
ところが最初こそ強制されたわけだが、実は瞬く間に嵌ってしまい、本を読んで、その読後感を書くという一連の作業を経たときに読書が完結するようにさえ感じられるようになってしまった。そのうちに記す内容は読書の範囲を大きく逸脱し、読書ノートの白いページは自分の心と対話する場になって行った。090921.jpg十代後半にたくさんの本を読んで、たとえ妄想と言われようといろいろなことを考える時間を持てたことはその後の自分の財産になったと感じている。国語が嫌いで先生のお名前も忘れてしまうような不真面目な生徒だったが、その○○先生には本当に大きな恩を感じている。
で、16歳春から25歳の夏まで書き綴った読書ノート、、、今も残っていた。
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GEKKO V4
2009-02-05 Thu 00:59
0902032.jpg 片づけものをしていたらこんな箱が出てきた。同世代の方は懐かしく感じられるだろう。GEKKO V4は天文少年時代に最も頻繁に使ったモノクロ印画紙だ。空の明るいところで写真を写していたのでV4でコントラストの強い堅い感じに仕上げていた。軟調のV1から硬調のV5まで5段階あった。箱もしっかりしていたのでいろいろな小物を整理するのに重宝したが、残っているのは唯一これだけ。因に、「チーホ」というのは後年飼っていたウサギの名前。跳んではねてにぎやかだったので「静かに!」という意味のポーランド語で呼んでいた。
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天体「観測」に対する子供の頃の抵抗感
2008-09-20 Sat 20:21
小中学生の頃、「趣味は天体観測」と言ったり言われたりするのが嫌だった。天体望遠鏡で星を見たり写真を撮ったりはするけれど、それは観測ではないと思っていたからだ。「観測」と言うからには科学的データの収集でなくてはならないと子供ながらに厳密に分けて考えていたようだ。080115.jpg
現在細々とやっている変光星観測。「観測」に値する科学的データを収集・提供できているか、常に自分に問いかけつつ夜空を見上げている(つもり)。

 全然別の話題だが、晏次郎さんの最新記事「こんな時の為に」で我がTS-65Pなど「チビ機材」が復権しているのが実はこっそり嬉しかったりして。
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カタログ収集
2008-09-06 Sat 21:07
カタログといえば、子供の頃はカタログ少年だった。『月刊天文ガイド』そのものがカタログみたいなものだったが、メーカーや機材会社へも郵送でカタログを請求した。ほとんどが有料で切手代用可だったので、家の買い置き切手がどんどん無くなった。そのうちに、望遠鏡機材のカタログが次々に送られて来て親にバレて叱られた。

0808222.jpg 昭和40年代の望遠鏡カタログはかなり集めたがそれもすべて今は無い。現在所有する最も古いものは、まだ天文復帰前の空白時代、1994年頃に高橋製作所から取り寄せた数冊。中井さんお勧めのTeegul-100もその中にある。

そうそう天体望遠鏡カタログといえばガラクマさんの『昔欲しかった天体望遠鏡』>「レトロ望遠鏡資料館」がすばらしい充実度。懐かしいカタログが展示されている。
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私の過去が広がったとき
2008-06-26 Thu 23:47
080626.jpg私の高校の大先輩に『二十億光年の孤独』という詩を書いた人がいる。その一編「生長」はこうして始まる。

三歳
私に過去はなかった

五歳
私の過去は昨日まで

七歳
私の過去はちょんまげまで

十一歳
私の過去は恐竜まで
<後略>
[『谷川俊太郎詩集』角川文庫 1968年 より一部抜粋]

 11歳の先輩は恐竜までというが、学研の『科学』の付録にあった青いプラスチックの四角い星座早見盤をまわしたとき、11歳の私の過去は130億年の昔まで一気に広がった。それは私の人生における精神のビッグバンだったのかもしれない。
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赤道儀至上主義?
2008-04-14 Mon 00:52
天気が悪いので昼間の写真になりがち。
070729.jpg 星野写真のガイド撮影に凝っていたので当然だったのだが、子供時代の私は赤道儀至上主義者だった。小学校時代に最初に買ってもらったフォーク式経緯台にはまもなく飽きてしまって赤道儀が欲しくなった。小学生が赤道儀を買うのはなかなか大変だったので、最初は経緯台の垂直軸を傾けてフォーク式赤道儀として使えないものかとやってみた。そこは子供の工作の未熟さで三脚ごと倒れそうになってこの作戦は失敗した。今ならばもう少しマシな工夫をしたと思うがどのみちその経緯台には微動装置がなかったから星野写真撮影には使えなかったのだが。
 近頃はと言えば、赤道儀と経緯台、それぞれに持ち場があってどちらが優れているとかいうものではないのが分かったのだが、それが35年の成長分ということか。
[写真は昨年3月10日撮影]
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足立光学のドーム
2008-03-05 Wed 00:30
0803044.jpg 先日、実家へ行ったときの話の中に足立光学のことをちらっと書いた(→3月3日)。子供の頃、自宅からほど近い境浄水場(武蔵野市)の近く、境新道を挟んですぐ西側の住宅街の一画に「足立光学レンズ製作所」という望遠鏡製作会社があった。足立英一氏は既に亡くなられ今はドームも無くなった。しかし、今でもこの道を通ると必ず足立光学のドームがあったあたりを見上げてしまう。

 昭和40年代、住宅街の中に天体望遠鏡のドームがあるのはかなり異様な風景だった。『天ガ』の広告で反射鏡の製作所であると分かったが、小学生の小遣いで買える製品でなかったことから、買う気もないのに訪ねて行く理由が見つからなくて、自宅からわずかの距離であったにもかかわらず行かず仕舞だった。小学生がおずおずと訪ねて行くだけで十分だったと思う。今になってみると躊躇したことが悔やまれる。

 上の写真は旧足立光学付近の昭和59年航空写真で、この中に写っているのは確かだが、ここという場所が特定できない。ご記憶の方はお知らせいただけるとありがたい。
[追記:その後、斜光線さんに頂いた情報から所在地を確定。上の航空写真に追加した。]

今夜の観測:曇り予報だったので期待せずに夕食後空を見上げたら星が見えた。急いで外へ出たがやはり見えたのはU Mon5.8等だけ。風はあるがあまり寒く感じなくなった。春が近い。
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37年前の明石天文科学館(その4)
2008-02-02 Sat 23:54
4回もこのネタではみなさん食傷気味のはず。これは自分用のメモなので、先日コメントのレスに書いたのとほぼ同じ内容です。で、以下はスルーして下さい。

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37年前の明石天文科学館(その3)
2008-01-27 Sun 00:08
37年前の中学3年の夏休みに一人関西方面を旅したときの旅行記の第3弾。ただし、今回はタイトルの明石天文科学館ではない。[→その1その2]

0801175.jpg この旅行記を読み返すまで忘れていたが、大阪府と奈良県の県境、生駒山頂の宇宙科学館にも行ったのだった。ただし、こちらはかなり面白くなかったようで感想は散々。「ぜんぜんつまらなかった。子供の遊び場である」とか「宇宙をもっと深くつい求したいなぁと思う僕の行く所ではなかった」などと偉そうに書いているのには我が事ながら笑ってしまった。そして、私の感想が象徴していると言うべきか、同館は現在では閉館になっているそうだ。
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37年前の明石天文科学館(その2)
2008-01-24 Thu 00:11
東京に住んでいた中学3年の夏休み、一人旅で明石天文科学館などを訪問したときの旅行記第2弾。[→その1]

0801174.jpg 最近の明石市立天文科学館と当時の写真とを比べると、「市立」の有無とか時計とその周辺の文字の感じ以外はあまり変わっていないように見える。阪神淡路大震災でかなりの被害を被り3年間閉館されて修復がなされたらしいが、外観はほとんど変わっていないかのようだ。実はそうではなかったようだが、それについての答えはここに書かれていた。

0801176.jpg0801177.jpg 左の写真は館の外観と展示の様子を紹介するページ。71年は火星大接近の年で火星関係の展示が多かったと書いてある。あぁ、そうなのだ71年というは鈴木壽壽子さん(『星のふるさと』著者)が四日市コンビナートのフレアスタックの炎を透してわずか6cmの望遠鏡で精細な火星スケッチを描いていたまさにその時だったのだ。

08011710.jpg 当時Webとかホームページとかいう概念は無かったが、なんだか今と同じような発想のものを作っていたと気づく。中学3年生の幼稚な文章で恥ずかしいが、「震災前の資料で貴重」とふくださんに言われたので公開に踏み切ることにした[4枚の写真はクリックで拡大]。

 これを読んで思い出したが、別の科学館へも行っていた。というわけで、さらにつづく、、、
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